今日は何の日 8月

●メルマガのオマケでその日の記念日記事を書いているのですが、その部分だけをまとめてみました。
気楽な読み物として楽しんでいただければ幸いです。


8月2日 カレーうどんの日
「カレーうどん100年革新プロジェクト」チームが、 カレーうどんが全国浸透してから100周年となる今年2010年に制定。 6月2日が「カレーの日」、7月2日が「うどんの日」であることから。 今年制定、本日からってのがスゴイじゃないですか。発祥は目黒のそば店の「カレー南蛮」で、 だし汁にカレー粉を加えて長葱(別名南蛮)を載せたもの。そのため、麺が蕎麦なら「カレー南蛮」と言い、 うどんなら「カレーうどん」と言うそうです。近畿では関西風のだしつゆにカレー粉を入れとろみを付けたもの、 名古屋ではだしつゆに独特のカレーソースをまぜたさらさらのおつゆ、大衆食堂や学生食堂では単純にカレーライスのソースをかけただけだったり。近年はドライカレーうどんや冷やしカレーうどんもあるそうです。 ほんとにいろんなバリエーションが楽しめますね。日本人はオリジナリティがない、とよく言われますが、 なんのなんの、既存のものを組み合わせてアッとおどろかせる、それも十分にオリジナリティではないでしょうか。 しかも目新しいだけではなくずっと愛されるものを作り上げるんですから。あんぱんもそうですね。 ネットではいろんなレシピがありました。 夏の暑い盛りに、辛くて熱いカレーうどんはいかがでしょうか。

8月3日 はちみつの日
1985(昭和60)年、日本養蜂はちみつ協会と全日本はちみつ協同組合が制定。「8(はち)3(みつ)」という語呂合わせから。 紀元前1万8千年頃から人々は、はちみつを食べていました。(スペイン北部アルタミラ洞窟の壁面に採取風景が描かれている)また、ピラミッドで発見された3300年前のハチミツの壷は、中のハチミツはまったく変質していなかったそう。この長期保存性はすごい。日本では、平安時代、宮中への献上品に使われるほどの貴重品で、江戸時代には、家康の孫の千姫が、絹などとともに、はちみつ数百貫を持って嫁いだそうです。(たぶん二度目の時) はちみつは、ミツバチが花のみつを胃の中に吸いとって、巣の中で多数の仲間のハチに分配し、分解しながら吐き出して巣房の中に蓄えたもので、最初は水分が多いが、転化酵素と温風で分解と脱水が促され、20%程度の水分量になるとみつ蝋で薄くふたをします。糖分のうち、ブドウ糖の割合が多い花みつ(ナタネなど)ほど結晶しやすいそうですが、湯煎すれば問題なく使えます。 ローヤルゼリーははちみつとは全く別物で、極めて若いメスバチが花粉や花蜜を食べて唾液腺で生合成を行い、顎の外分泌腺から出す酸味のある乳白色クリーム状の物質で、女王蜂はこれを食べ、自分の体重と同じ重さの卵(約1500〜2000個)を毎日産み続けるという、まさに完全な栄養食品です。またプロポリスはミツバチが植物樹脂などを集めて自分たちの巣を護り、清潔に保つために使っているもので、植物色素物質の持つ生理活性を利用しているそうです。 すごいですねえ、ミツバチ。しかしその数が今、激減しているらしい。ま、その話はミツバチの日(3月8日!)に。ちょうど来年は月曜ですが、それまでメルマガを書き続けているかどうか。。

8月5日 世界ビール・デー(International Beer Day)
2007年にアメリカ・カリフォルニア州サンタクルーズで開始された、 友人たちと集まってビールを楽しみ、ビール製造に関わる人たちに感謝をする日。 ただ単にビールを飲むだけでなく、ちゃんとした目的がある。 1.友人と集まりビールの美味しさを楽しむ 2.ビールを醸造し提供する人達に感謝する 3.全ての国と文化のビールを祝うことにで世界が1つになる この記念日ができたいきさつはよくわかりませんが(しかもまだ6年前) 確かに今の時期、冷たいビールは旨いですね。 しかし、発泡酒や第三のビールはカヤの外なのか。 ちょっと気になる所です。 なお、ゆるカフェでは美味しい生ビール(レーベンブロイ)をお出ししています。

8月4日 ビアホールの日
1899年、東京・銀座に、日本に現存する中では最も古いビアホール「エビスビヤホール」が開店。(現サッポロライオン)ということで、今日はサッポロライオン全店生ビール半額だって。これは行かなきゃ。でもあそこって、食べ物は結構いいお値段。調子に乗ってガンガン飲み食いしたら、結局は一緒か?ちなみに、アサヒは7月20日がビヤホールの日で、やはり生ビール半額だったそうだ。業界トップのキリンはどうよ。

8月5日 世界ビール・デー(International Beer Day)
2007年にアメリカ・カリフォルニア州サンタクルーズで開始された、 友人たちと集まってビールを楽しみ、ビール製造に関わる人たちに感謝をする日。 ただ単にビールを飲むだけでなく、ちゃんとした目的がある。 1.友人と集まりビールの美味しさを楽しむ 2.ビールを醸造し提供する人達に感謝する 3.全ての国と文化のビールを祝うことにで世界が1つになる この記念日ができたいきさつはよくわかりませんが(しかもまだ6年前) 確かに今の時期、冷たいビールは旨いですね。 しかし、発泡酒や第三のビールはカヤの外なのか。 ちょっと気になる所です。 なお、ゆるカフェでは美味しい生ビール(レーベンブロイ)をお出ししています。

8月9日 長崎原爆の日
1945(昭和20)年8月9日、長崎に原子爆弾が投下され、 約7万4千人の市民が死亡、約7万5千人が重軽傷を負った。 原子爆弾は、その3日前にも広島に投下されましたが、 前者はウラニウム型、後者はプルトニウム型で、別物なのです。 天然の材料から作るウラニウム型は、構造は簡単で作りやすいが効率は悪い、 人工的な元素プルトニウムから作るものは軽量で威力が高いが、 高度な技術が必要で、どちらの方法がいいか開発研究がすすめられていました。 戦後の核開発は、すべてプルトニウム型となっています。 爆弾の威力は長崎に投下されたものの方が大きかったのですが、 山の多い地形、爆心地が市街地から3キロ離れていた、ということが、 広島にくらべて被害が少なかった要因です。 (それでも甚大ですが) 第一目標の小倉は天候のせいで投下できず、第二目標の長崎になりましたが、 もし小倉だったら広島以上の被害になっていたことは間違いありません。 戦後この事実が明らかになったとき、小倉市(現北九州市小倉区)では、 目標とされていた地点に祈念碑を立て 毎年今日、8月9日に原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を行っています。 「戦争の終結を早めるため必要だった」という原爆投下の正当性を いまだに大多数のアメリカ人は信じていますが、 それなら広島だけで十分だったのでは? ソ連と開発競争をしていた原子爆弾の二つの型、 それぞれの威力を実験するためだったのかも。 もっとも広島直後に無条件降伏していれば長崎は助かったのに、 降伏の条件などでもめていたために第二の惨事となりました。 やはり一番の問題は政治家の責任ですよ。 こんなことが二度と起きないよう、平和についてしっかり考え、 行動していかなければなあと思います。 まずは午前11時2分、黙祷を捧げましょう。

8月10日 道の日
大切な社会資本である道路の重要性を見直し、もっと関心を持ってもらうため、建設省(現在の国土交通省)道路局が1986(昭和61)年に制定。日本初の近代的な道路整備計画が決定した日にちなんで。 また、「日本の道100選」も制定されました。札幌大通り、哲学の道、日光街道などのおなじみなものから、東西軸トランジットモール(福岡)という、出身者の私も知らないような道まで、100選と言いながらなぜか104本。都内では内堀通り、中央通り、新宿副都心街路、湾岸道路の4つ。 日本の特色ある優れた道路ということですが、さていかがでしょう。 都内では関連してさまざまなイベントが行われます。新宿西口でイベント・展示、6、7日親子体験ツアー、5、6日道路功労者、道路標語入選者の表彰式、5日、あれ〜?全部終ってるじゃん。。ホントに今日が道の日なの?

8月12日 航空安全の日
1985(昭和60)年の8月12日、日航ジャンボ機が墜落した日。 この事故は史上最悪と言われているが、その理由として、 520名という死者数、異常発生から墜落まで30分という時間の長さが挙げられる。 原因は7年前に起きた尻もち事故の、ボーイング社による修理ミスだった。 事故半年前の検査では、修理個所に細かい亀裂が生じていたが 検査は亀裂発見を主目的にしたものでなかったため発見されなかったという。 航空機は製造段階では間違いを犯さないための配慮が多くされるものの、 修理は千差万別で作業も難しく、ミスは起こりえるのだが、 それをチェックする仕組みがなかったためこのような事故となった。 事故発生から30分間パイロットの必死の立て直しも空しく御巣鷹山に墜落したが、 その間、機内ではさほど混乱せずみな落ち着いて行動していたそうだ。 乗客の中には最期を覚悟し、家族への遺書を残す者もいた。 事故現場から発見された遺言にはこのように記されていた。 「ママ こんな事になるとは残念だ さようなら 子供達の事をよろしくたのむ 今6時半だ 飛行機はまわりながら 急速に降下中だ  本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している」

8月11日 三遊亭圓朝師匠の命日(圓朝忌)
落語中興の祖、三遊亭圓朝師匠は1900年の今日亡くなった。 命日には「圓朝忌」として、毎年谷中の全生庵で、 圓朝師匠と過去一年間の物故芸人の法要、 奉納落語、扇子供養などを内輪で行っていたが、 2002年から「圓朝まつり」として生まれ変わる。 日程は、8月11日の直前の日曜日、 奉納落語は、お客様を入れての寄席となり、 境内では、芸人が趣向をこらした飲食店、販売店など、 お客様と芸人が触れ合う年に一度のお祭になり、 去年は3000人を超す賑わいとなった。 今年は昨日、10日でしたが、皆様行かれましたか? その圓朝、あまりに上手過ぎて師匠(2代目圓生)から嫉妬され、 やむなく新作を作ったというのは有名な話。 その新作、「芝浜」「文七元結」「牡丹燈籠」 「四谷怪談」「真景累ヶ淵」「死神 」など、 古典落語の代表と言われるものばかり。 改めて、凄い人だったんだなあと思います。

8月13日 左利きの日
1992年、英レフトハンダーズ・クラブが左利きの生活環境の向上を求めて提唱。 誰もが安全に使える道具を各種メーカーに対して呼びかけることが目的。 この日は提唱者の誕生日だそうだ。(誰かは不明) 蒲田にある菊屋浦上商事は、左利き道具をたくさん揃えていることで有名。 店主の左利きの息子さんが、カッターナイフで手を切ったことから。 日本はお盆なので別な日にしようという動きもあったが定着していない。 左利きの有名人はダ・ビンチ、ナポレオン、モーツァルト、ダーウィン、 ニュートン、アインシュタイン、エディソン、グールド、ビル・ゲイツなど。 米大統領はガーフィールド、フーバー、フォード、レーガン、 ブッシュ、クリントン、オバマなど、44人中7人(16%)だが、 米人の左利き率は30%という説もあり特に多いわけではない。 有名人も、全部のパーセンテージを取れば左利き率より低いのかもしれない。 1930年代発達心理学者のオルトンが、故意に利き手を矯正すると 吃音になりやすいと発表して以来、無理な矯正は少なくなった。 実際、英首相チャーチルは左利きを矯正されたことで障害を残し、 双極性障害まで発症したが、第二次大戦中首相として祖国を勝利に導いた。 彼は左利きが必ず抱える困難に対して、くじけたりしながらも、 残った長所を潰さないという形で世に名を残す政治家になった。 左利きは最も身近なマイノリティーと言われます。 右利き用の道具を上手く使えず不器用とみなされがち、 しかし有名人や天才に左利きが多い(気がする)ので妙な期待感を持たれがち。 特別な目で見ず違いを認め合う、良い機会なのかも。 ちなみに私の4人の子供のうち3人が左利きですが、 有名でも天才でもありません。

8月16日 女子大生の日
1913(大正2)年、日本初の女子大生が誕生した。 当時の日本の大学は旧制高校を卒業した男子学生のための学校であり、女性が大学に入学なんてもってのほかだったが、創立間もない東北帝国大学は、独自の判断で4人の女性の受験を認めた。 入学試験のさなか文部省は、考え直せという内容の書簡を大学に送るが、大学側はかまわず、黒田チカ、牧田らく、丹下ウメ3人の合格を発表、 ここに日本初の「女子学生」が誕生することになった。と言っても、3人とも高等女学校の助教授という優秀な人たち、 年齢も20台半ばから40、今の女子大生とは雲泥でしょう。最年少の牧田らくは、卒業後数学者として教鞭を取っていたが、 洋画家・金山平三との出会いによって人生が大転換。教授をしながらコツコツ貯めたらくの貯金すべてをつかって 金山は下落合の高台に土地を買い、自分の思い通りのアトリエを建てる。らくは結婚したあともしばらく数学の研究を続けていたが、 金山が画家として成功すると退職して主婦業に専念し、夫を支えた。最年長丹下ウメは、幼少の頃自己で右目を失明したが、 成績優秀で、地元鹿児島の小学校の教員をした後、日本女子大に進学、その後高等女学校の教員となる。 入学時にはすでに40才、卒業後スタンフォードなど4つの大学で9年間学ぶ。帰国後は理化学研究所で鈴木梅太郎のもとビタミンの研究を行い、 日本初の女性農学博士になった。黒田チカはオックスフォード大学留学などを経て日本初の女性化学者となり、天然色素の研究、たまねぎの皮から高血圧治療薬を精製するなど 多くの業績を残した。「物質といっても、一生懸命で向かったらちゃんと本性を見せてくれる。 どんなに難しいことも悲観せず、困難に遭えば遭うだけ張り合いがあると考え、勇気と真心とで向かうのが最善の道というのは、 科学に限らずすべてに通じるものだと思います。」素晴らしい先人たちは竜馬だけではありません。 女性も、こんな素晴らしい人たちがいたんですね。

8月17日 プロ野球ナイター記念日
1948(昭和23)年、横浜ゲーリッグ球場で日本初の照明付夜間野球試合、 巨人対中部(現在の中日)戦が行われ、 その時「ナイター」という言葉が初めて使われた。 英語では「ナイトゲーム」なので、 「ナイター」は和製英語と言われているが、 アメリカンフットボールなどで「ナイター」を使うなど、 「夜間興行」という意味で、まれに存在するそうです。 日本生まれの和製英語が偶然、 英語でまれに使われている語と一致したのか、 あるいはまれな英語が日本で定着したのか、 はたまた和製英語が逆輸出された結果なのか、 そのそのあたりはナゾです。 日本でナイターが生まれて60年、 言葉一つにも歴史を感じますね。 なお、横浜ゲーリッグ球場とは、ご存知今の横浜スタジアム。 初ナイターだけでなく、日本初の野球の国際試合が行われたことから、 「日本野球発祥の地」と言われています。 開港150年に沸く横浜、球場の歴史にも思いを馳せてみてはいかがでしょう。

8月18日  コマネチが1976年モントリオールオリンピックで史上初めて10点満点を出した日
ルーマニアのナディア・コマネチ、その時何と14歳。 それまでIOCは満点が出ることを予想しておらず、 電光掲示板には9.99までしか表示できなかったため、 1.00と表示されたそうです。 4年後のモスクワでメダルを4つ取った後、引退。 1989年、当時の独裁者チャウシェスク大統領の息子から 愛人関係を求められ、やむなくアメリカに亡命。 (一ヵ月後に政権崩壊。) その後アメリカ人体操選手でオリンピックの金メダリスト、 バート・コナーと結婚、2006年長男出産、 夫婦で体操教室や慈善団体を主催し、世界中を回っているそうです。 波乱万丈でしたが、現在はお幸せな様子、良かったですね。 今週はオリンピックネタということで、こういう記事もいかが。 (JOC公式サイト オリンピックの歴史)

8月18日 高校野球記念日
1915年のこの日、大阪の豊中球場で第1回全国中等学校優勝野球大会が開会した。 この時始球式で袴をはいてボールを投げたのは朝日新聞社長、村山龍平氏、 シルクハットを被って審判長を務めたのは、京大総長荒木寅三郎氏。 地区予選を勝ち抜いた10校が参加、京都二中と秋田中の決勝戦では、 延長13回の熱戦の末、2対1で京都二中が優勝した。 優勝したチームには大辞典と50円の図書券、選手たちには腕時計が贈られたが、 賞品に対する批判が起こり、2回目以降はメダルのみになった。 人気に伴い会場が手狭になったため、第3回から鳴尾球場に。 第7回から、満州・朝鮮が、第9回から台湾が参加した。 第10回以降は、新しく完成した兵庫県の甲子園球場で行われた。 1941年(第27回)太平洋戦争のため中断、再開は終戦の翌年1946年。 以後、8月15日の正午には、試合を中断させて1分間の黙祷が捧げられている。 1948年、第30回大会から学制改革により全国高等学校野球選手権大会に名称変更。 試合終了後、勝利校の校歌演奏と校旗掲揚が行われているが、 これを発案したのは、大阪毎日新聞の記者だった人見絹枝。 彼女はアムステルダムオリンピックで日本女子陸上初となる銀メダルを獲得し、 このときの表彰式での国歌演奏・国旗掲揚に感激したことから。 なお、土を持ち帰るのは敗者だけと思いきや、実は勝った方も持ち帰っており、 決勝戦出場校は表彰式等のその後のプログラムが全て終わった後、 グラウンドから引き揚げるときに土を持ち帰っているそうな。 (禁止している学校や、来年も来るという意味で持ち帰らない選手もいる。) 連日熱戦が繰り広げられている高校野球、来年は実に100周年ですよ。 長い歴史には、実に様々なドラマがありますね。 ここに書ききれなかったこともたくさんありますよ。 ゆるカフェで語り合いましょう。

8月19日 俳句の日(8・19の語呂合わせ)
1992年俳人で京都教育大学教授の坪内稔典さんらが提唱して決定。 俳句は五七五の形式の世界最小の定型詩だが、近年発達した外国語のHaikuの場合 文字数・音節数には余りこだわらずに3行程度の短い詩が作られている。 また俳句には「季語」を必ず埋め込むという約束があるが、 近年の現代俳句やHaikuでは必ずしもとらわれない。 「俳句」という言葉は意外にも明治20年代に正岡子規が作った造語で、 「俳諧の発句」を縮めたもの。 松尾芭蕉や小林一茶などがやっていたのは実は「俳諧」であって、 その当時は「俳句」という言葉はなかった。 「俳諧」とは「連歌」の形式で滑稽や生活感情などを読み込んだもの。 最初に誰かが五七五の形式の「発句」をして、 それに別の誰かが七五の形式の「付け句」をするということを続けて 何連も続いていくという遊びで、後に発句のみでやめてしまう形式が出てきた。 同じ五七五の形式で風刺性の強いものは「川柳」というが こちらは短歌の前付け句から発達したもので起源が異なる。 川柳の由来は江戸時代の川柳評者、柄井川柳から。 季語のあるのが俳句で、なくて風刺的なのが川柳、って昔教わった気が。 なくてもいいんなら、その違いは何なんでしょう。 正岡子規は野球用語の和訳で野球の殿堂入りをしているくらいの人ですが、 まさか「俳句」という言葉まで作ったとは。 ちなみに俳聖とも呼ばれる松尾芭蕉、そのネーミングの元は庭の芭蕉ですが、 芭蕉って、実は英名をジャパニーズ・バナナというそうです。 松尾バナナ、ちょっとシュールですね。

8月20日 藤原定家(1162生)が亡くなった(1241年)
新古今和歌集の撰者の一人で「小倉百人一首」の撰者でもある。 生まれは平治の乱が終わった3年後。 昨日の大河ドラマ(清盛が太政大臣に)の時、定家6歳。 そして、31歳の時に平家は滅び鎌倉幕府が成立したが 亡くなった時代には、頼朝の家系は途絶えていた。 新古今和歌集は、万葉集・古今和歌集と並ぶ三大和歌集。 鎌倉時代初期、後鳥羽上皇の勅命による勅撰和歌集で1216年に15年かけて完成。 この後鳥羽上皇は、松田翔太演じる後白河法皇の孫、 平家とともに壇ノ浦に沈んだ安徳天皇の弟にあたり(母親は別) 安徳天皇が退位せず、しかも天皇の証、三種の神器がないまま即位した。 そのコンプレックスが強硬的な政治姿勢となり、 倒幕を試みた承久の乱の遠因ともなり、その敗北により隠岐に流された。 後鳥羽上皇は歌人として優れ、新古今もみずから編纂に携わったが、 完成後も隠岐において、18年かけて「隠岐本新古今和歌集」を作り上げた。 一方の定家もどうしても不満なところが残ったということで、 古今の優秀な和歌100首を集め、小倉百人一首として編集した。 定家が生まれたのは二条天皇の時代、亡くなったのは四条天皇の時代、 その間は三条かというとそうではなく、10世代の交代があり 主権が朝廷から武士へと移っていった、まさに激動の時代に生きた歌人でした。 まあそういうことも思いながら見ると大河「平清盛」も少しは興味深いかも。 なお百人一首がカルタとして使用されるようになるのは 戦国時代の終わりに西洋からトランプが入ってきてからのことで、 それまでは一般に色紙に書いて愛でたりしていたようです。

8月23日 白虎隊自刃の日
1868(明治元)年、戊辰戦争に於いて会津藩の白虎隊が城下の飯盛山で自刃した。会津藩では軍を年齢により白虎・朱雀・青龍・玄武の4つの班に分けており、 最年少の白虎隊は16歳から17歳までの少年で編成されていた。官軍と戦闘状態に入ると白虎隊も実戦に参加したが、 城下の町に火の手が上がったのを会津落が落城したものと思い、 20人の全員が互いに刺し違えて自刃した。 かろうじて一人だけ助かって、後にその詳細を伝え残した。一般的には、明治維新で平和に大政奉還した徳川家とは対照的に、 ダダこねて逆らった会津藩が、結局年端もいかない子供まで巻き込んで自滅、というくらいの認識だと思いますが、 会津藩はもともと徳川家と姻籍関係が深く、藩主は松平と改姓が許されたくらい。 幕末の混乱期は京都守護を任され、天皇からも信任されていたのですが、維新で薩長が天皇をゲットしたらとたんに立場大逆転、 田舎侍の薩長は京で放火や盗賊など無道しまくりで、それを取り締まろうとした会津藩士が、反対に朝敵扱いされたようです。 旧支配勢力を排除するためわざと挑発したという説もあります。いつの時代もどこの世界も、変革の時には戦いが起きてしまいますが、 ただ、正義がほんとうに正義なのか、悪いと言われた人たちは本当に悪いのか竜馬や西郷だけが正しかったのか、なぜ会津は朝敵と言われたのか、 もう一度考えてみてもいいんじゃないでしょうか。 NHK大河ドラマで、会津から見た維新のドラマを作ってほしいものです。 なお、白虎隊で自決した石山虎之助は、井深家からの養子で、実兄は井深基といいます。基は白虎隊より年長の朱雀隊でしたが、かろうじて生き残りました。 この方がソニー創始者、井深大の祖父であります。やっぱり、生きていてこそですね。

8月24日 ポンペイ最後の日
ポンペイはナポリ近郊にあった裕福な商業都市で、 ワイン醸造や貿易などで栄えていたが、 西暦79年、北西にそびえるヴェスビアス火山の突然の噴火により、 約8メートルの火山灰により埋没した。 溶岩流によって一瞬にして消滅したようなイメージですが、 午前中から地鳴り、火山灰の降下などの予兆があり、 お昼頃に噴火、その後3日間火山灰が降りそそぎ、 大多数の人は有毒ガスによる窒息死だったそうです。 とすると、逃げることもできたのでは? そうなんです。 市民の中には逃げた人も多かったのです。 犠牲になった人の多くは何と富裕階層で、 高価な家具調度、金銀、宝石類等、膨大な財産を持ち運ぶ準備に手間取り、 脱出のチャンスを失ったらしい。 2千年近くも前の出来事ですが、 自然災害が多発している昨今、教訓になりますね。 もっとも持ち運ぶのに手間取るほどの財産もありませんけど。 なお、1962(昭和37)年に三宅島が大噴火を起こしたのもこの日でした。

8月25日 即席ラーメン記念日
8月25日 即席ラーメン記念日

1958(昭和33)年、日清食品が世界初の即席ラーメン「チキンラーメン」を発売。発明者は、後に日清食品を創業した安藤百福。もともと繊維問屋など手広く経営していたが、不本意な連鎖倒産により無一文に。たった一つ残ったのは、池田の自宅のみ。そこで何ができるか考えた時、10年前のある出来事を思い出した。
戦後食べるものもなかった時代、アメリカからの援助物資の小麦粉からパンを製造し、パン食を奨励する運動を、政府が行っていた。安藤氏は東洋文化であるめん類を粉食奨励しないことに不満を持ちけ合ったが当時の製麺業界は零細企業ばかりで安定した提供ができない、やりたいなら自分が開発すれば、と役人に言われたこと。また、これからは日本も成長し忙しい時代が来ると予測、簡単で美味しく、栄養、保存性が高く、衛生的で安い食べ物を提供すれば絶対成功するし、社会にも貢献できる、と考え、1年間の研究の後、ついにお湯を注ぐだけの画期的なラーメンを開発した。
安藤氏はチキンラーメンがヒットした後、世界に売り出そうと欧米を訪問した際、チキンラーメンを二つに折り、紙コップに入れフォークで食べる人たちを見て、カップヌードルを思いつき、開発した。当初は販売に苦戦したが、あさま山荘事件で機動隊員が食べている姿がテレビ中継され、これが宣伝となって爆発的な売れ行きとなった。この時、警視庁には市価の半額の50円で提供されていたという。
1999(平成11)年には、発祥の地、大阪府の池田に「インスタントラーメン発明記念館」がオープンしている。そこではインスタントラーメンの手作り体験ができ、持ち帰って作りたての味を楽しむことができるのだそうだ。

ユースホステルの日
急速な工業化が進行中のドイツ、ルール工業地帯の町アルテナ、 小学校教師、リヒハルト・シルマンは、子どもたちが元気なく病気がちなのを憂え、 教室から連れ出し、郊外の森の中で授業をおこなってみたところ、 子どもたちに笑顔が戻り、元気になるという効果があった。 1909年の本日、生徒たちと遠足に出掛けた時、 突然の大雨のために小学校で雨宿りをしたが、 夜になっても雨は止まず、翌朝までその小学校で過ごすことになった。 この経験から、旅行中の青少年が何かあった時に駆け込め、 安い料金で安心して宿泊のできる施設の必要性を感じる。 当初、自身の勤務する小学校の教室に宿泊し徒歩旅行を敢行、 「借りたものは綺麗にして返す」という考えで、 セルフサービスや自己管理を学ぶという教育的効果も表れ、 地元のアルテナ市の積極的な賛同と援助により、 3年後、中世の古城「アルテナ城」が専用のユースホステルとして開設された。 現在約80の国と地域に4000か所以上、日本には約220か所あります。 会員制(年会費、新規成人で3,500円)だが、600円で一日会員も可。 宿泊料金は安く(3〜4,000円)男女別の相部屋、セルフサービスが基本。 単に値段の安い宿泊所ではなく、家庭的な雰囲気や宿泊者同士の情報交換も盛ん。 世界では帆船、ジャンボジェット機(ストックホルム)、元刑務所(オタワ)など ユニークな施設もり、もちろん第一号アルテナ城も現役です。 日本ではログハウス(福島)、寺(長野)、スタジアム(大阪)など。 (合掌造りもあったが2001年に廃業) ユースと言っても誰でも泊まれますので、今度の旅行にいかがでしょうか。

8月27日 『男はつらいよ』の日
1969年のこの日、山田洋次監督・渥美清主演の映画、 『男はつらいよ』シリーズ第1作が公開された。 最初に登場したのはテレビドラマ「フーテンの寅」で、 この時は最終回で寅さんは、沖縄でハブに噛まれて死亡した。 しかし、あまりの反響の大きさのため映画で復活し、 以来1996年に渥美が死去するまで48作、世界最長の長編シリーズとなった。 若いころ実際にテキ屋体験がある渥美ならではの口上も見事だった。 フーテン(瘋癲)は精神状態が異常なことや、そういった人のこと。 1967年の夏、新宿東口に集まる長髪にラッパズボン、サングラスで 定職に就かず、ブラブラしている無気力な若者集団をフーテン族と呼ぶように。 ただし、車寅次郎には的屋という定職があるので、 実はフーテンと呼ばれるような、無職でもなければ、 ぶらぶらしてばかりの無気力な人ではない。 渥美清は徹底的にプライベートを公表しないことで有名で、 長男はニッポン放送に就職の時、父親の本名を書いたがそれとわからず、 後日父親として渥美が来社した時には社内が騒然としたそうな。 寅さんのイメージに反して、頭が良く真面目で勉強家だったそうです。

8月31日 イギリス王太子妃ダイアナ元妃が亡くなった日
イギリス王室はもともとドイツが発祥で、王位継承者にはドイツ系外国人の配偶者を迎える慣例の中、初めての純粋なイギリス人(両親とも)の妃でした。「理想のカップル」と世界中の人気になったものの、結局離婚。原因は夫の不倫というのが一般的な認識ですが、伝統に基づいたつつましやかな生活を好むチャールズ王太子と、まだ20代前半の、自由奔放で派手なダイアナさんとは、生活様式や趣味嗜好が合わず、次第に深い溝ができ、結局、心許せる昔からの恋人とのひと時が手放せなかった、というのが真相のようです。 ダイアナさんはこの日、交際していたエジプト人の富豪とハイヤーに乗っているところを、パパラッチと呼ばれるゴシップカメラマンに追い掛け回され、車が激突してしまいました。事故直後は生存しており、救急隊員にうわ言を言い続けていたが、現場にいた9人ものパパラッチは、誰も救助活動に手を貸さず彼女の写真を撮り続けていたとか。最近カメラを手にしたばかりの私ですが、人は「決定的瞬間」を目の前にするとこうなってしまうのでしょうか。もちろん皆がそうではないと信じたいものですが。 1997年、パリでの惨劇でした。 なお、パパラッチという呼び名は、フェデリコ・フェリーニ監督の映画『甘い生活』に登場する、報道カメラマンの名前「パパラッツォ」が由来だそうです。


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