今日は何の日 7月

●メルマガのオマケでその日の記念日記事を書いているのですが、その部分だけをまとめてみました。
気楽な読み物として楽しんでいただければ幸いです。


7月1日 童謡の日
日本童謡協会が1984年に制定。 1918年のこの日、多くの名作童話・童謡を生み出した日本初の児童文芸誌 「赤い鳥」が鈴木三重吉により創刊された。 大正時代、政府主導の低級な消火や説話指導に対抗して提唱され、 菊池寛、西條八十、谷崎潤一郎、三木露風らが作品を寄稿した。 もともと童謡は文学運動であり、旋律をつけることは考えられていなかったが 北原白秋の「かなりや」に成田為三が曲を付け、楽譜付で掲載したことが、 大反響を呼び、童謡ブームが起きた。 「赤い鳥」には芥川龍之介「蜘蛛の糸」「杜子春」、 新美南吉 「ごん狐」などが初掲載されている。 一方寄稿を試みた宮沢賢治の作品は、全く評価されず掲載されなかったそうだ。 戦時中は童謡は軟弱であるとして排斥されたが、 戦後はベビーブームもあり、新しい童謡(子供の歌)がたくさん生まれている。 童謡が盛んに歌われるということは平和の象徴かもしれません。

7月2日 たわしの日
1915年、西尾商店の西尾正左衛門が「亀の子束子」の特許を取得した。 明治の中ごろ、正左衛門の家は貧しく、母親はシュロを編む内職をしていた。 正左衛門は何とか母親に楽をさせたいと、売れる商品作りを工夫し、 シュロを針金で巻いた新型の足ふきマットを発明して売り出す。 最初は順調に売れたものの、何度も使用すると毛先がつぶれる欠点があり、 やがて大量に返品される。 なんとかしなければと考えていたある日、妻が掃除するのに、 玄関マットを切り取って丸めて使っているのを見て、 新たに洗浄用の道具を思いつく。 昔から、藁や縄を束ねた「たわし」は、洗う道具として使われていたが、 針金で巻いた棒状のシュロを使うのは初めて。 女性が使うことを考え、大きさや形を工夫し、特許を取った。 名前は、息子の何気ない一言から「亀の子束子」となった。 「商品として世に喜ばれ、時代に即応したもので構造が簡単で、 所期の目的を達し、その堅実にして、且つ価格低廉、 最も良く特許の条件に的中したものとみられる」とは、 時の特許局長の、特許交付時のメッセージです。 100円ショップなどで安いたわしもたくさんありますが、 今でもほとんど手作りの亀の子束子は、しっかりしていて全然違います。 実は亀の子束子の西尾商店は、スタジオフォーのすぐ近くにあるんですよ。 地蔵通りをまっすぐ板橋方面に歩き、明治通りを越したら、 レトロな建物とシュロの木が。 このシュロの木、戦争中パームが手に入らなくなった時、 代替品としてたわしに使っていたそうです。 スタジオにお越しの際、せひ寄ってみてください。 売店や展示室があり、おもしろいオリジナル商品もありますよ。

7月5日 江戸切子の日
東京カットグラス工業協同組合が制定。 江戸切子の文様の一つ「魚子(ななこ)」から「なな(7)こ(5)」の語呂合せ。 魚子は、魚の卵をモチーフとした伝統的な和の意匠で、 他に矢来・菊・麻の葉模様など、着物にも見られる身近な和の文様が特徴。 江戸末期、硝子、眼鏡問屋の加賀屋から暖簾分けした加賀屋久兵衛が ガラスの表面に彫刻で模様を施したのが始まり。 もともと透明なガラスに切り込み模様を施したものが江戸切子、 色を被せたガラスが、鹿児島の薩摩切子だったが、 薩摩の方は明治になって廃れ、薩摩切子の職人が東京へ出て技術を伝え、 江戸切子も色被せガラスによる模様の浮き出しが主流となった。 この記念日制定は2008年というから、まだ3回目、 どこかで何か催しがあるようでしたらご覧になってはいかがでしょうか。 国の伝統工芸にも認定されている江戸切子、 夏の到来に切子の輝きが一服の清涼感となることと思います。

7月6日 記念日の日
「記念日」という言葉を一般に定着させた「サラダ記念日」に因む。「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日、ですよ。発売は1987年、今からもう20年以上も前の話。ついこないだだったような気がしますが。ちなみにこれを制定したのは「日本記念日学会」というところ。もう一つ、「日本記念日協会」というのもあって、記念日登録するのに7万+消費税、1年2回以上だとその倍、など、こっちの方がしっかり商売してるカンジ。しかし純然たる個人事業のようで官憲のお墨付きはナシ、なので漢検の二の舞にはならないってことですか。

7月7日 七夕
いわずと知れた、七夕です。夜には晴れるでしょうか。もともと旧暦の7月15日の夜に戻って来る祖先の霊に着せる衣服を機織(はたおり)して棚に置いておく習慣から「棚機」(たなばた)、と称していたが、仏教伝来後、15日はお盆となり、棚機は盆の準備をする日ということで7月7日に変更、ってつまり、15日をお盆に乗っ取られたわけですか。その後中国の織女・牽牛伝説が結びつき、今日の「たなばた」になったそうです。調べてみると七夕のほかにも、というかちなんでというか、あるわあるわ。 「ラブ・スターズ・デー」銀座と有楽町のデパート7店が制定して共同宣伝。「サマーラバーズデー」新宿地区のデパートが制定。「サマーバレンタインデー」サマーバレンタイン実行委員会が制定。いずれも七夕に因んで意中の人にプレゼントをする日。商魂見え見え、でもあまり見かけないような。もうすでに廃れたか?他に、「川の日」七夕伝説の「天の川」のイメージ、また7月は「河川愛護月間」から建設省が制定。「竹・たけのこの日」かぐや姫が竹の中から生まれた日は7月7日ではないかということから全日本竹産業連合会が制定。「乾麺デー」七夕の日に、素麺を天の川にみたてて食べる風習があったことから全国乾麺協同組合連合会が制定。「ギフトの日」七夕は牽牛と織女が年に一度出会う日ということから、全日本ギフト用品協会が制定。「ゆかたの日」七夕の日、女の子は、裁縫の上達を祈り、衣類に感謝していたという中国の故事から日本ゆかた連合会が制定。「ポニーテールの日」 7月7日が「七夕」「ゆかたの日」であり、織姫がポニーテールであることと、ポニーテールが浴衣に似合うこと等から、日本ポニーテール協会(!)が制定。織姫って、ポニーテールだったのか?!

7月8日 質屋の日
7(シチ)、8(ヤ)の語呂合わせから。 お金を必要とする人から担保の品物を一定期限預かってお金を貸し、 返せない場合は品物を処分(流す)のが質屋という貸金の仕組み。 貨幣経済が発達した鎌倉時代頃に生れたと推定されているが、 そもそも借金、そして借金に利子がつく制度は想像以上に古く、 日本は弥生時代、外国では四大文明が起こるもっと以前からあったそうだ。 人が農業を始めた頃から、春に種子を貸してもらい 収穫時には借りた分より多く返すという習慣ができ、 貨幣が誕生する以前から「利子」という物が存在していた。 奈良、平安時代には、すでに園地や宅地などを質入して借金した記録があり、 当時の法律「大宝律令」では、その利息の最高額を規制している。 鎌倉時代になって無尽銭(むじんせん)と呼ばれる、商売としての質屋が誕生、 江戸時代になって「質屋」という名称になった。 明治時代には「一六銀行(イチロク、1+6=7)」と呼ばれて庶民に親しまれたが、 現在ではブランドものを買い取る、リサイクルショップの様相となっている。 江戸時代の質屋さんの目印は将棋の駒、 店の中に歩いて入ると向こうで金に成る、からだそう。 シャレ気たっぷりな時代、ユニークな品物の質入れもあったそうで、 伊勢の旅館が「井戸」を、ある歌人は「露」という字を、 また落語家が得意のネタを質入した、なんていう話が残っています。 サラ金と違って借金が複利で膨れあがったり、取り立てたりせず、 ブラックリストも関係ないという、庶民には優しい金貸しと言えるでしょう。 歴史ある「質屋」という商売、見直してみるのもいいかもしれませんね。

7月12日 ローリング・ストーンズ記念日
1962年のこの日、イギリスのロックバンド、ローリング・ストーンズが ロンドンのマーキー・クラブでライブ・デビューした。マーキー・クラブは老舗ライブハウスで、ストーンズの他 ヤードバーズ、アニマルズ、ザ・フー、デビッド・ボウイ、クリーム、ピンク・フロイド等そうそうたるバンドがレギュラー出演していた。 同時期にデビューしたビートルズが「優等生」に対して「不良」というイメージだが、これはお互いのマネージャーが宣伝の為に作り上げたもの。 実際のストーンズは真面目な優等生で(その後は麻薬問題もあったが、これはビートルズも同じ) しかもこの2つのビッグなバンドは仲が良く、互いにレコーディングを見学しあったり、コーラスで参加したりしていた。 現在まで50年近く、紆余曲折や停滞時期もあったが 1度も解散することなく第一線で活躍を続け、 ロック・バンドの代名詞的な存在となったローリング・ストーンズ。今でも元気でステージを務めるミック・ジャガーは(何ともうすぐ68歳!)こう語っています。「30歳を過ぎたら、自分の体には規律が必要なんだよ。 健康で強い体を保つためには、かなり厳しくトレーニングしていく必要がある。特に僕のように動きのあるステージをこなすためには・・・。 あまり運動もしないでいると、やっぱり一箇所に突っ立っているだけのようなステージになっちゃうね。もしエキサイティングなステージをやりたかったら、 普段は退屈で時間がかかると思えるようなトレーニングをやるしかないんだよ。最終的にはそれが価値のあることだったって分かるわけなんだ。」 その名の通り、転がる石にはコケは付かない、が、転がり続けるためには努力が必要なんですね。

7月13日 ナイスの日
「ナ(7)イ(1)ス(3)」の語呂合せ。ナイスなこと、素敵なことを見つける日。 映画「時をかける少女」にこんなセリフが。「今日は7月13日。ナイスな日です。なぜナイスな日かというと7と1と3だからです。」これが由来なのか、もともと「ナイスの日」があって、話の中で使ったのかさだかではありませんが、ストーリーは、この7月13日を中心に進んで行きます。 全国的に猛暑となった今日、イライラするより何かナイスなことを見つけてみませんか?この暑さじゃ、アイスの方がいいかな。

7月14日 パリ祭(フランス革命記念日)
1789年、パリ市民がバスティーユ監獄を襲撃し、多くの政治犯を解放、フランス革命の始りとなった、というのが通説ですが、実際のバスティーユには民衆が考えていたような政治犯はおらず、囚人は5名で、そのうち三人は窃盗犯、一人は狂人、そしてもう一人は「変態伯爵」だったそうです。ちなみにこの日を「パリ祭」と呼ぶのは日本でだけ。ルネ・クレール監督の1932(昭和7)年の映画、 Le Quatorze Juillet(7月14日)の邦訳名が「巴里祭」で、この映画が大ヒットしたから。「パリ祭」と言うと甘美なイメージですが、革命でギロチンですからねえ。

7月15日 盂蘭盆会(うらぼんえ
僧侶たちが一カ所に集まり集団修行する一定期間(安居-あんご)が終了し、 父母や祖霊を供養する日(解夏-げげ)で、 日本では古神道における先祖供養の儀式や神事を、 江戸幕府が仏教式で行うよう強制し、お盆として定着していった。 盆の翌日、16日の晩に寺社の境内に老若男女が集まって踊るのが盆踊り。 これは地獄での受苦を免れた亡者たちが、喜んで踊る状態を模した、 夏祭りのクライマックス。 当時は旧暦だったので、15日、16日は必ず満月で、夜通し踊ることができた。 明治の改歴でお盆は8月15日になったが、 沖縄など一部の地方はまだ7月に盆の行事が行われている。 胡瓜や茄子で牛や馬の形を作るお供え物は 故人の霊魂がこの世とあの世を行き来するための乗り物で、 きゅうりは足の速い馬に見立てられ、あの世から早く家に戻ってくるように、 ナスは歩みの遅い牛に見立てられ、帰るのが少しでも遅くなるように、 また、供物を牛に乗せてあの世へ持ち帰ってもらうとの願いが込められている。

7月16日 カラヤンの命日
1989年帝王と称された指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンが亡くなった。 1908年ハンガリー帝国の貴族の子として生まれたカラヤンは ウィーン音楽院で学んだ後、親の買い上げたオーケストラで指揮者デビュー、 ここからずでに常人とは違います。 顔もニヒルな二枚目で、スターの条件を先天的に備えていたが、 帝王と称されるゆえんは、指揮者として素晴らしかったのはもちろん、 ウィーンフィル、ベルリンフィルという欧州2大オケの音楽監督を務めたこと、 レパートリーが非常に広範囲で、いずれも高い評価を得ていたこと、 メディアを非常に重視して、録音を多数残したこと(総売上は1億枚超!) 専用ジェット機で世界中を飛び回るスター指揮者のスタイルを確立したこと、 などなど、これまでのクラッシック音楽の常識を超えた存在だったから。 CDの最大収録時間74分は、カラヤンの第九を収めるためというのは有名な話。 晩年は指揮者の職業病ともいえる、脊椎の持病にも悩まされ、 生涯に12回もの大手術を受けた。 89年本日、当時ソニーの社長だった大賀典雄がカラヤンの自宅を訪ね、 8ミリソフトの発売についての話をしていたところ、 突然ぐったりとなり、大賀の腕に抱かれたまま心停止となったそうです。 小澤征爾をひきたてたり、サントリーホールの設計に携わったり、 日本との関係も深く人気も高かったカラヤン、何とも象徴的な最期でした。

7月19日 女性大臣の日、そして北壁の日
1960(昭和35)年のこの日、池田勇人内閣で 中山マサ衆議院議員が厚生大臣として入閣、 日本初の女性大臣が誕生した。 在任期間は5ヶ月と短かったが、母子家庭への児童扶助手当支給を実現した。 夫も子供二人も孫も議員だったが、現在はすべて引退または落選している。 また1967(昭和42)年今井通子と若山美子がマッターホルン北壁登頂に成功。 女性だけのパーティーでの北壁登頂は世界初で、北壁の日とされている。 もっとも、マッターホルン北壁世界初登頂は1879年9月3日イギリスのママリー、 日本初登頂も1965年8月6日 服部満彦、渡部恒明によってなされているが、 「女性だけ」が世界初なので、この日となっているようです。 服部、渡部両氏は、えーっ何でだよー、と思っているかも。 そして世界に誇る女性作家、紫式部の肖像が描かれている2千円札、 このお札の発行も2000年の今日でした。 いっそ女性の日、にしてみたらどうでしょう。

7月20日 海の日
1996年に制定された国民の祝日。趣旨は「海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願う」。 2003年からハッピーマンデー制度で7月第3月曜日になりましたが、もともと7月20日なので、今日は正当な「海の日」です。 祝日化される前は「海の記念日」でした。 1876年、明治天皇の東北地方巡幸の際、それまでの軍艦ではなく灯台巡視の汽船「明治丸」によって航海をし、 7月20日に横浜港に帰着したことに因ます。 「島国根性」(他国との交渉が少ないため視野が狭く閉鎖的)という言葉は、良くない意味で使われますが、狭い島の中で肩寄せ合って暮らしていくためには他人への気配り、協調精神、勤勉さ、誠実さが必要であり、またそれは、チームワークが必要な近代工業でも強みを発揮し、日本が豊かな、平和な社会となってる理由の一つと言えます。 周囲を海で囲まれた日本ならではの記念日に、(他国にはないそうだ)海に囲まれたことを感謝しつつ、世界や平和について考えてみるのもいいんじゃないでしょうか。

7月21日 神前結婚記念日
海の日ということでの休日なんですが、もともとは20日。ハッピーマンデーで7月の第三月曜日になりました。 21日でというと、「神前結婚記念日」明治33年、大正天皇の御婚儀をきっかけに日比谷大神宮(現在の東京大神宮)が神前結婚式のPRを始めた日。それ以前、結婚式は家庭で行うのが普通でした。神前結婚式、今ではすっかり当たり前になっていますが、明治時代からのPR活動の成果なんですね。私事ですが、今年5月に息子が花巻の鳥谷崎神社で結婚式を挙げました。とても厳かで素晴らしかったのはもちろん、木々の緑やさわやかな風や、普通に参拝に来た人々の祝福などあって、いいものだなあと思いました。今日、せっかくの休日、神前結婚式された方に幸あれ!あ、でも今日は赤口、大安は昨日だ。神前は、六曜とは関係ないのか?そう言えば13日の金曜日が大安だったら結婚式は可?

7月22日 下駄の日
全国木製はきもの業組合連合会が制定。 季節的に浴衣が着られ、下駄の利用が多くなる時期でもあり、 7は下駄の寸法を表わすのに「七寸七分」、 22は下駄の跡が「二二」に見えることから。 これは「雪の朝二の字二の字の下駄の跡」という俳句が元ネタと思われる。 作者は江戸時代の女流六歌仙と言われた、田捨女(でん すてじょ)。 何と6歳の時の句だそうだ。 道路が舗装されていなかった時代、雨が降ると草履ではぬかるみに足が埋まるが 高さのある下駄は大丈夫なため、庶民の履物として重宝された。 現代では道はほぼアスファルトに舗装されているため、 歯の減りが早く、また音がうるさいということで一般ではほとんど使われず わずかに花火シーズンの浴衣の女性くらい。 しかし長い間日本の庶民の履物として愛用されてきたので、 言葉はさまざまに残っている。 下駄を預ける→全面的に相手に任せる。 下駄を履かせる→おまけで加算の意。下駄を履くと背が高くなることから。 下駄を履くまでわからない →全て終わるまで結果はわからない。 下駄箱 → 履物を収納する家具。靴箱と同義。 下駄履き住宅→ 1階が商店などで、2階から上を住宅にした建物。 最近はちょっと涼しいですが、まだまだ暑くなると思われます。 素足にさわやかな下駄、灼熱のアスファルトからちょっと距離があって、 気分だけでも涼しいエコな履物、休日だけでもいかがでしょうか。

7月23日 慶安4年(1651年)由井正雪の乱起きる。
静岡・清水の由比に生まれた正雪は、幼少より才気煥発で、 17歳で江戸へ出、、楠木正成の子孫にあたる軍学者の弟子となり、 めきめき才覚を伸ばし、その婿養子となる。 その噂に将軍家からも仕官の要請があったが応じず、 軍学塾を開いて多数の塾生を集めていた。 三代将軍家光の時代、まだまだ戦国の影をひきずっていて、 多数の大名が減封・改易され浪人の数が激増、 再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人があふれていた。 彼らは幕府の政治に対して批判的で、盗賊や追剥をする者もあり、 大きな社会不安にもなっていた。 その年の4月、家光が48歳で病死、後継ぎの息子はまだ11歳、 正雪はこれを契機として幕府転覆、浪人救済を掲げて行動を開始する。 江戸を焼討し、混乱に乗じて幕閣や旗本を討ち取り、 同時に京都で天皇を擁して高野山か吉野に逃れ、 徳川将軍を討ち取るための勅命を得る、という計画だったが、 密告により露見、一味は捕らえられ、由井正雪は駿府で自害した。 江戸幕府は、これを機にそれまでの政策を見直し、 浪人対策に力を入れるようになりました。 改易を減らし浪人の採用を奨励、武力でなく法律や学問による治世、等々 奇しくも正雪の掲げた理想の世になっていったということは まさに身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、でしょうか。 今の政治家にそれを求めるのは、、無理な話なんでしょうかね。 命をかけて、とか、誰か盛んに言ってたような気もするんですけど。

7月26日 幽霊の日
1825(文政8)年のこの日江戸の中村座(歌舞伎)で、鶴屋南北作『東海道四谷怪談』が初演された。夫に毒殺されたお岩の復讐話で、実際に起こった事件がモデル。 これに皿屋敷、牡丹燈籠を加えたものが日本三大怪談とされていて、夏になると落語の方でも聴く機会が多くなりますが、 この四谷怪談だけはあまり落語で聴かないように思います。いろいろ調べてみましたら、三遊亭圓朝の作があるそうで、 伊右衛門の見た幽霊はアルコール依存症による幻覚であるという解釈だそうな。どなたかご存知でしょうか。 実は巣鴨にお岩さんのお墓があって、(スタジオから歩いて5分くらい)歌舞伎や映画の製作が決まると祟りのないよう、出演者がお参りに来るそうです。落語家さんがお参りに来て、スタジオで四谷怪談をやるというのもいいかも。しかしこの「お岩」という名前がすごいなあと私は思います。 「もとは美人だったが夫に盛られた毒によって顔が崩れていく」という展開、「もとは美人」という部分はすっかり抜け落ちて、岩のような顔しか頭に残りません。その頃「お岩」という名前がポピュラーだったとしたら、 普通のお岩さんにはさぞや迷惑な話だったでしょうね。

7月27日 政治を考える日
1976(昭和51)年本日、ロッキード事件で田中角栄前首相(当時)が逮捕された。これをきっかけに、みんなで政治について考えよう、という日です。 ロッキード事件とは、アメリカのロッキード社が航空機の売込みの際に、日本の政界に多額の賄賂を贈ったとされる疑獄事件。田中氏は成功報酬として現金5億円を受け取ったことで起訴され、(2億円で保釈された)一審、二審とも有罪の実刑判決を受けたが、上告中の平成5年12月16日死去し、公訴棄却となった。 また、この事件では、佐藤孝行運輸政務次官(逮捕当時)や橋本登美三郎元運輸大臣、全日空の若狭得治社長、ロッキードの販売代理店の丸紅の役員と社員、行動派右翼の大物と呼ばれ、暴力団やCIAと深い関係にあった児玉誉士夫氏や、「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治氏などが相次いで逮捕者され、関係者の中からは多数の不審死者が出るなど、第二次世界大戦後の日本の疑獄を代表する大事件となりました。 それから30数年、金権体質政治や政財官の癒着、政治の私物化などがすっかり影をひそめた、とはとても思えませんが、あのころ絶大な権勢を誇っていた自民党は凋落の一途、「奢れるものは久しからず」でしょうか。来月は総選挙があります。政治家が悪い悪いと言っても、選ぶのは我々。主権者として、もう一度しっかり政治を見つめなおしてみませんか?

7月28日  第一次世界大戦開戦記念日
1914年、オーストリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が始った。初めての世界規模の戦争で、死者1,900万人にのぼる。その数年後に大流行したスペインかぜの死者4,000万人に比べればマシ、という意見もあるが、かぜ(インフルエンザ)ならしかたないが、戦争で死にたくはないな。

7月28日 ヨハン・ゼバスティアン・バッハが亡くなった日

バッハ一族は代々音楽家で、その中でも突出した業績を残したのが、 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(J.S.バッハまたは大バッハ)であり、 現在バッハと言えばJ.S.バッハを指す。 1685年、ドイツ東部の小都市、アイゼナハ生まれ。 (ワグナーのオペラ「タンホイザー」のモデルになったヴァルトブルク城がある) 即興演奏の得意なオルガン奏者として高名になり、 ケーテンやザクセンの宮廷音楽家として、また聖トーマス教会の楽長として活躍、 2度の結婚で20人もの子をもうけ、5人の息子はみな音楽家として活躍した。 64歳の時、脳卒中で倒れ、また以前より患っていた眼病が悪化、 手術をしたものの回復せず、1750年の本日、ライプティヒにて死去。 亡くなった当時の評価は、世界中で活躍する音楽家の父親としてであり 死後は古臭い音楽として急速に忘れられていった。 しかし鍵盤楽器の曲を中心にモーツァルト、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、 ショパン、シューマン、リストなどといった音楽家たちによって 細々と、しかし確実に受け継がれ、1829年のメンデルスゾーンによる マタイ受難曲のベルリン公演を機に一般にも高く再評価されるようになった。 バッハの音楽はバロック音楽の集大成であるが むしろ西洋音楽の基礎を構築、音楽の源流であると捉えられ、 日本の音楽教育では「音楽の父」と称されている。 なお、チェロの名曲として有名な「無伴奏チェロ組曲」は パブロ・カザルスの再発見により、一躍有名になった曲であり、 カザルスはこの曲を弾きこなすためにチェロの奏法を大幅に改革した。 この改革がなければ、20世紀のチェロ無伴奏作品のほとんどが 作曲されることはなかっただろうと言われている。

7月29日 アマチュア無線の日
1941年12月8日の太平洋戦争勃発と共に禁止されたアマチュア無線が 1952年の本日解禁となり、全国の30人に無線局が発給された。 ここで言う「アマチュア」とは、各種無線業務における「アマチュア業務」、 すなわち個人的な無線技術の訓練や技術的研究の業務のことで、 「素人」の意味ではない。 アマチュア無線家のことを「HAM(ハム)」と言うが、その語源は諸説ある。 1)amateurの最初の2文字をとり発音しやすいようにhをつけたもの 2)大根役者(アマチュア)のことを英語でhamと言うことから 3)アマチュア無線の黎明期に有名だった無線局のコールサインから パーソナルな通信と言えば今では携帯電話ですが、主な違いを上げてみると、 CQ呼び出し(どなたでも応答してくださいという意味)で 偶然に電波を聞いていた知らない人から応答があり友達になれる、 年齢・性別・職業・国籍等の差別なく全く平等、 必ずコールサイン(呼出符号)を言わなければならないので、 出所が明らかになり発言には責任を伴い、誹謗中傷や無責任な発言が無い、 1対1の交信でも、内容はすべてのアマチュア無線局が聞くことができるので、 他の人が会話に次々に応答してくるなど、友達の和が広がる。 日本はかつて世界一のハム大国で、ピーク時(1994年)136万局でしたが、 (第二位アメリカ合衆国65万局、三位ドイツ7万局) 少子化や携帯電話の普及などで年々減少し、2009年47万局で今も減少傾向です。 しかし通信料が無料で災害に強いアマチュア無線、これからの時代には必要かも。 なお日本アマチュア無線連盟の事務局は巣鴨にあるんですよ。

7月30日 1978年 沖縄県で自動車が右側通行から本土と同じ左側通行に変更された。
もともと左側通行だったが、沖縄戦直後アメリカ軍により右側通行に変更され、 72年本土復帰後も続いた。 1975年「一国一交通制度」に基づき交通方式変更が閣議決定、 2年間におよぶ準備作業の後、県内全域で左側通行に変更された。 1978年7月29日22時より翌6時まで沖縄県全域で自動車の通行が禁止され、 その間に道路標識・道路標示等を一斉に切り替え、 8時間後の翌日6時をもって自動車は左側通行となった。 路線バスは乗降口が異なるため、1000台以上が一斉に購入され これらは730(ナナサンマル)車両と呼ばれた。 実施当初は、当然ながら交通事故が相次ぎ、 特にバス同士の正面衝突など、職業運転手による事故が多かった。 沖縄県の日本復帰を象徴的に示す戦後の一大プロジェクトだったとは言え、 「交通革命」「強いられた本土化」という声も多かった。 沖縄は昔からいろんな犠牲を強いられていたんですね。 一部の人間(地域)に犠牲を強いて自分らだけ安全ならいいのかという意味では 基地の問題は、東北の震災がれきや原発の問題と同じではないでしょうか。 何もできなくとも、考え続けることは大事だと思いますが、いかがでしょうか。


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