今日は何の日 2月

●メルマガのオマケでその日の記念日記事を書いているのですが、その部分だけをまとめてみました。
気楽な読み物として楽しんでいただければ幸いです。


2月1日 テレビ放送記念日
1953(昭和28)年、NHK東京放送局が日本初のテレビの本放送を開始した。 東京・内幸町の東京放送会館から放送された第一声は、 「JOAK-TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」 当時の受信契約数は866台、受信料は月200円だったそうです。 昔はテレビは貴重品で、シャープの国産第一号機は175,000円、 大卒初任給が1万そこそこだった時代にですよ。 一般の人々は、家庭ではもちろん買えなかったので、 街頭テレビなどで放送を楽しんでいました。 その後、NHKは渋谷に移転し、東京放送会館跡地は 日比谷シティとして再開発されました。 日比谷公園の南側、日比谷公会堂のすぐ隣です。 ところでテレビとは関係ない話ですが、 あるバンドの、地方出身のマネージャーがメンバーに告げた集合場所は、 「シビヤ公会堂」 。すると半分が日比谷公会堂、もう半分が渋谷公会堂に集合したとか。 実話ですが、ホントはどっちだったのか、聞き忘れました。

2月2日 バスガールの日

1920(大正9)年、東京市街自動車の乗合バスに初めてバスガールが登場。黒のツーピースに白い襟というハイカラな格好、また、初任給35円という高給が話題になった。(当時、大卒男子の早稲田、慶応で30円、東大で40円)しかし女性の社会進出意識が低かったため応募が少なく、採用はわずか37人。その後徐々に女性の社会進出が進み、「何々ガール」と呼ばれる職業が人気を博していく。ハロー・ガール(電話交換手)マニキュア・ガール(理髪店で爪の掃除)ガソリン・ガール(ガソリン販売)マネキン・ガール(モデル兼売り子)等など。そして、最後に出てきたあこがれの職業が、1931年の「エアー・ガール」、つまりスチュワーデスだったんですね。今、「ガール」はどこに行ったのでしょう。アキバでしょうか。ちなみに関東大震災後、東京に初めて市バスが走ったのは、1924年(大正13年)1月18日でした。ルートは東京駅〜巣鴨、東京駅〜中渋谷の2系統。その頃、巣鴨は渋谷と並ぶ都会だったのか?今では、かつてのガール達が集う街となったのであった。

2月3日 大岡越前の日
1717(享保2)年のこの日、大岡越前守忠相が南町奉行に就任した。 8代将軍吉宗の信頼が厚く、享保の改革に協力し、 火事の多かった江戸の防火対策のため、町火消し制度の創設、 困窮者救済のため小石川療養所を開設、 庶民の要求・不満などの投書を受け取るために目安箱を設置、 物価や通貨の安定、ゴミ収集の組織化、新田の開発などを行い、 人情味あふれる庶民の味方として認識されることとなった。 また、出版書籍の素性明確化のため「奥付」を義務化した。 大岡裁きで有名だが、19年間の在任中の裁判は3回、 そのうち忠相が執り行ったのは「白子屋お熊事件」一回だけ、 不仲の夫を殺そうとした材木問屋の娘の事件で、大岡裁きでも何でもないが、 時代が庶民文化の興隆期であったことも重なり、 他人の名裁きや中国の故事などが取り入れられ、 「大岡政談」として写本や講談で人々に広がっていった。 忠相公は1751年に75歳で死去、茅ヶ崎市の浄見寺に葬られました。 それにちなんで茅ヶ崎市では毎年大岡越前祭が開催されます。 今年は4月19、20日の土日、越前行列や野点、鍋、駅前コンサートなど 様々な催し物が行われるそうです。

2月4日 立春
二十四節季の一つ。 冬至と春分の中間で、この日から立夏の前日までが春となる。 暦の上ではこの日が寒さの頂点で、翌日からの寒さを「残寒」「余寒」といい、 手紙や文書等の時候の挨拶などで用いられる。 「寒中見舞い」は立春の前日までで、以降は「余寒見舞い」(2月下旬頃まで)。 九州など暖かい地方では梅が咲き始める。 八十八夜、二百十日、二百二十日などの雑節の起算日(第1日目)。 立春以後その年に初めて吹く南寄りの強い風を春一番と呼ぶ。 桜の開花時期は、立春からの最高気温の合計が540℃という概算法がある。 立春の早朝、禅寺では、入口に「立春大吉」と書いた紙札を貼る習慣があるが 文字が左右対称で縁起が良く、一年間災難にあわないといういわれがある。 厄除けとして、家の鬼門にこの紙札を貼る家庭もある。 節分は季節を分ける日で、立春、立夏、立秋、立冬の前日はみな節分だが、 現在は立春の前日のみを指している。 という本日の立春ですが、毎年2月4日というわけではありません。 春分の日や秋分の日が年によって変わるように、立春も変わります。 2028年までは2月4日ですが、2029年は2月3日が立春となります。 ということは2月2日に豆まき、あまりピンときませんね。

2月6日 海苔の日
大宝2年1月1日(西暦702年本日)発布された最古の成文法典「大宝律令」に、 海苔が租税品の一つとして指定されていることを記念して。 古来海苔は大変な貴重品だったので、貴族だけしか食べられなかった。 江戸中期、浅草の弥平が品川浦の「ひび」(漁のため海に刺した木や竹)に、 海苔がよく付くことを発見、そこから養殖が始まる。 (それで浅草海苔が有名になった) その後、紙のように抄いて現在のような乾のりの形にするなど、 海苔の養殖は江戸で栄え、その後各地に広まった。 しかし海苔の生態は不明で、近くにタネ場がなければ養殖ができなかった。 分かったのは近年になってから。 海苔の胞子が海底の貝殻に付着してカビ状になり、 その後再び海苔になることが発見され(1951年) 人工的に海苔の種を付着させる方法が普及、各地で養殖可能となった。 今では海苔は日本で数少ない完全自給食品の一つとなっている。 さて韓国、中国も海苔をよく食べますが、北欧でもスープの具にしたり、 青野菜が不足する北極地ではイヌイットが盛んに食べているそうです。 海苔を食べる文化がなかったアメリカでは、 「裏巻き」の工夫でカリフルニアロールが大ヒット。 当初は磯臭さと真っ黒な巻物が食べ物として受け入れられなかったとか。 海苔はビタミンB1、βカロチン、食物繊維、鉄分、カルシウム、ヨード、 EPA(中世脂肪を下げる)などが含まれている非常に良質の健康食品です。 保存は密封容器に乾燥剤を入れ冷暗所や冷蔵庫に、長期は冷凍庫で、 出したら必ず常温に戻してから開封しましょう。(湿気るので) 湿気った海苔は元の状態へは戻らないので、佃煮などに利用してはいかが。 佃煮の作り方。 醤油、みりん各々1/2カップ、しょうが汁少々、砂糖と塩適量を煮立て、 あぶって細かく揉みほぐした海苔(全型10枚分)を入れて弱火で煮込む。 なお、先週の記事「3分電話の日」で 1分10になったのは1993年10月という情報が寄せられました。

2月7日 北方領土の日 
日本政府が1981(昭和56)年に制定。 1855年本日、日露和親条約が締結され北方領土が日本の領土として認められた。 択捉島・国後島・色丹島・歯舞諸島からなる北方領土の総面積は沖縄の2倍以上。 その後の「日露通好条約」で、ロシアとの国境が択捉島とウルップ島との間に確定、 「樺太千島交換条約」によって樺太全島を放棄する代わりに千島列島全てが日本領となり、 日露戦争の勝利により、「ポーツマス条約」で南樺太も日本領となった。 第2次大戦の敗戦により、1951(昭和26年)の「サンフランシスコ平和条約」で、 日本が戦争によって奪った土地の権利は放棄することとなり、千島列島もその中に含まれた。 しかし北方領土は千島列島に含まれておらず、戦争によって獲得した土地でもないが、 ソ連は千島列島の一部であるとして北方領土を占領し、その状態が現在まで続いている。 条約などで決めても、それぞれの国が勝手に都合のいいように解釈してしまう。 お互い強く主張して譲らなければ、結局武力に訴えるしかないということで、 戦争になってしまうのがこれまでの世界情勢でしたが、 何とか外交努力で解決して欲しいものです。 伊能忠敬さんに北方領土も測量してもらえば良かったですね。 200年も前に「日本国の地図」として北方領土が記載されていれば ソ連だって手出しできなかったでしょうに。

2月8日 郵便マークの日
おなじみの「〒」のことです。 1887(明治20)年、逓信省(後の郵政省、現在の日本郵政グループ)のマークが 「逓信(TEISHIN)」の頭文字から、「T」に決定した。 しかし万国共通の、郵便料金不足の記号とそっくりなのがわかり、 6日後「テイシンショウ」の「テ」を図案化した「〒」の誤りだった、 ということにして変更した。 結構お役所もいいかげんでしたね。 時代がのんびりしてたのかな。 また、「T」の上に横棒一本足したという説もあります。 このマークは郵便ポストや配達員の帽子、制服、などに使われたが、 一般人が使うことはほとんどありませんでした。 しかし、1968年からはよく使われるようになります。 そう、郵便番号の導入で、差出人の住所の前に このマークと番号を書くようになったんですね。 今はパソコンに「ゆうびん」と入力すると出てきます。 ただし正式な縦横比は、幅のほうが広く高さが低いデブ型ですが (1950年の郵政省告示第35号による) パソコン記号は幅の方が短いノッポ型なのでした。

2月9日 ふくの日
下関ふく連盟が1981(昭和56)年に制定。「ふ(2)く(9)」の語呂合せ。下関では、河豚は「ふく」と発音し、 「福」と同音であることから縁起の良い魚とされている。 漢字で「河豚」と書くのは、もともと河川に生息していたから、 そして、体が膨らむから豚、ではなく、 身の危険が迫ると豚のような鳴き声をするからだそうです。 ふく(ふぐ)と言えば、下関、ですよね。 山口県が漁獲量日本一? ところが県別では6位。それがなぜ「ふぐ=下関」なのか。 豊臣秀吉の時代、多くの人が中毒死したため、 ずっと食用禁止になっていた。 明治時代になってから、時の総理大臣伊藤博文が 下関でふぐを食べ、そのおいしさに感動し、山口県に限りふぐ食を解禁したことから、山口県、下関がふぐの街になりました。 もっとも江戸時代にもこっそり食べられていて、 その中心となっていたのが、加賀藩、 漁獲量堂々第一位の石川県。 ここでは猛毒の卵巣を3年がかりで毒抜きした、 「ふぐの卵巣の糠漬け」という珍味もあります。 日本の食文化の奥深さを感じるではありませんか。

2月10日 玉川上水の工事が着工した日
江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画され 1653年(承応2年)本日着工された。 取水口の羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなく、 引水工事は困難を極め、2度の失敗の後ようやく完成した。 実際に工事を請け負ったのは庄右衛門・清右衛門兄弟、 多摩川沿いの地域の農家であったらしい。 公共工事として幕府から6000両が拠出されたが、 高井戸まで掘ったところでついに資金が底をつき、 兄弟は家を売って費用に充てたという。 この功績により兄弟は「玉川」の姓を名乗る事が許され、 上水の管理も玉川家の世襲となった。(玉川兄弟) この上水は新田開発による武蔵野の農地への水の供給など 農業生産にも大いに貢献した。 上水は江戸の飲料水の貴重な水源であり、 水質を守るため、洗い物、漁撈、水浴び、塵埃の投棄などはご法度、 また水路の両側幅3間は保護地帯とし、樹木の伐採、下草刈りも厳禁だった。 また、上水沿いには桜の木が多く植えられたのは 花見客に堤を踏み固めてもらうのと、 桜の花びらが水質を浄化すると信じられていたことによる。 そんな上水なのに、明治時代には運搬用の船が行き来していたそうです。 そのせいで水質が極端に悪化、わずか2年で船便は廃止されましたが 水質の悪化は避けられず水道としての使命は終わっかたに思えました。 現在は多摩川は水源としての役割を果たすとともに、玉川上水一体は 江戸、東京の発展を支えた歴史的価値を有する土木施設・遺構として、 文化財保護法に基づき、国の史跡に指定されています。 でも、そんな大工事が、こんな寒い日に着工したんですねえ。

2月11日 建国記念の日
建国をしのび、国を愛する心を養う国民の祝日。 1966(昭和41)年から国民の祝日になった。 この日はかつて「紀元節」という祝日だったが、戦後になって廃止。 昭和26年頃から9回の議案提出・廃案を経て国民の祝日に追加された。 「建国記念日」ではなく「記念の日」なのは、建国された日とは関係なく、 単に建国されたということを記念する日であるという考えによるもの。 紀元節は明治5年に決められた祝日で、神武天皇即位の日(日本書紀)の、 紀元前660年1月1日を新暦(グレゴリオ暦)に換算した日。 それ以来紀元前660年を元年として「皇紀○年」という数えかたが作られたが、 現在ではほとんど使われていない。 建国記念日、ではなかったんですね。 単なる言葉のアヤというか、左の方たちのツッコミ逃れという気も。 ちなみに今年は、皇紀2673年です。

2月13日 苗字制定記念日
1875(明治8)年の今日、政府がすべての国民に姓を名乗ることを義務附けた。 江戸時代は苗字を使っていたのは貴族と武士だけだった。 明治時代、中央集権となり、政府が全国民の戸籍を把握する必要から、 平民も苗字を持つこととなったが、国民は新政府を信用しておらず、 税金を課せられるのではと警戒し普及しなかったので義務化を断行した。 その結果、みなあわてて急に適当な苗字をつけたので、 苗字の種類が世界一くらいにもなり、また変な苗字が続出した。 現在の苗字の数は何と30万近く。 ベスト7000で全人口の約96%をカバーしているそうです。 ということは、残りの27万3千の苗字は、その一族だけかも。 変わった苗字としては、 ○(まる)一(にのまえ)九(いちじく)、十(つなし)珍名(ちんな)など。 宇宙、延命、出世、敬礼、煙草、風呂、などという名字もあります。 すべてそのまま読む、実在する名前だそうです。 私の旧姓、盛清(もりきよ)も相当変わった苗字で、 画数多くて書きにくく、印鑑も特注しなきゃならず大変でした。 (平清盛とは何の関係もありません。たぶんあわてて適当につけたと思う。) 結婚して西島になり、普通の苗字になって良かったなあと思っています。 苗字人口ベストワンの佐藤は約200万人、 藤原秀郷の後裔、左衛門尉公清が佐藤を称するに始まったそうで、 2位鈴木は約170万人、物部氏族穂積氏の後裔、紀伊国熊野の豪族だそうです。 自分の苗字のルーツをたどってみるのもおもしろいかもしれませんね。

2月14日 バレンタインデー
西暦269年のこの日、兵士の自由結婚禁止政策に反対したバレンタイン司教が、 時のローマ皇帝の迫害により処刑されたことにちなみ、 恋人たちの愛の誓いの記念日としてキリスト教の行事に加えられた。 ヨーロッパでは、この日を「愛の日」として花等を贈る風習がある。 1958年(昭和33年)1月、メリーチョコレートはこれをヒントに 初めてのバレンタインセールを行ったが、3日間の総売り上げはたった170円。 翌年はチョコをハート型にして、その上に贈る人と相手の名前を入れたり、 「年に一度、女性から男性へ愛の告白を!」というコピーを付けるなど販売に工夫し 女性が愛を告白してよい日として日本に浸透していった。 今では義理チョコ、女性同士で送る友チョコ、男性が女性に贈る逆チョコ、 自分へ送る自分チョコなどイベント化していて、 日本のチョコレート消費量の何と2割がバレンタイン関連、 メーカーによっては4割以上もあるとか。 翌月のホワイトデーも菓子屋のキャンペーンだそうで、 消費の拡大は経済活性化で良いことなのかもしれませんが、 何か振り回されているだけのような気がするのは 私がすっかりオバサンになってしまったからでしょうか。 ちなみに本命チョコは全体の1%だそうです。

2月15日 落語家、立川志の輔の生まれた日
立川志の輔(たてかわ しのすけ、1954年2月15日- )は、 富山県新湊市(現射水市)出身の落語家、タレント。 本名、竹内 照雄(たけうち てるお)。 左利きで血液型はA型。オフィスほたるいか所属。 出囃子は『梅は咲いたか』。 2007年芸術選奨文部科学大臣賞受賞。 と、 フリー百科事典「ウィキペディア」には記載されています。 メルマガのお客様には周知の事実でしょうけど。 今日で56歳を迎えた志の輔師匠ですが、 いつも新しいことに挑戦し、 精力的に活動を続ける姿はほんとに感動ですね。 スタジオフォーでの初高座は2001年2月24日、もうすぐ丸10年です。 最初の頃は志の輔プロデュースということで毎月開催し、 師匠が出演できない時には、いろんな方が出演しました。 神田山陽(当時北陽)、談春、彦いち、生志(当時笑志)、 松元ヒロ、寒空はだか、橘右門など他にもたくさん。(敬称略) 開催は不定期になってきましたが、今度で何と73回目です。 師匠の還暦のお祝いも、スタジオフォーでできるとうれしいですね。 志の輔師匠、お誕生日おめでとうございます!

2月16日 天気図記念日
1883(明治16)年、ドイツ人気象学者クニッピングの指導のもと、 日本初の天気図が7色刷りで作成された。 「天気図」なるもの、テレビの天気予報などで 目にしたことがあると思いますが、 どういうものかご存知でしょうか。 実は私、高校時代山岳部で、ラジオの気象通報をもとに 天気図を作成していました。 「浦河では、東北東の風、風力3、晴れ、気圧998ミリバール」等、 (当時はヘクトパスカルじゃなかったんです) 聞きながら専用の日本地図にどんどん記入していくんですが、 最初は観測地点の場所も、方角も、天気記号も 全くわからず、でもアナウンスはどんどん先に進んで 地図を前に鉛筆持ったまま呆然としていたのを思い出します。 でも卒業頃にはアナウンス以上のスピードで記入し、 同じ気圧を結んで書く等圧線もちゃんと引けて、 それなりの気象予報を立てられるようになりました。 石の上にも3年、がんばって続けていれば 何でもそれなりにできるようになるものですね。 しかし、それは若いからできたのかな、 と思ったりする今日このごろですが。

2月17日 シーボルトが生れた日
1796年ドイツの医師・博物学者フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト誕生。 「フォン」は貴族階級を意味し、シーボル一族は学才に秀で、 医者や医学教授を多数輩出している。 フィリップは医学、植物学を学んだ後東洋研究を志し、 26歳の時オランダ国王の斡旋で来日、長崎の出島のオランダ商館医となった。 当時日本はオランダとしか交易を行っておらず、 ドイツ人シーボルトは入国できないところをオランダ人と言い張った。 彼の話すオランダ語は、日本人通辞よりも発音が不正確で怪しまれたが、 「自分は山地出身の高地オランダ人なので訛りがある」と偽って切り抜けた。 (干拓によってできたオランダに山地は無いが、当時日本人は知らなかった) 日本では医院をしながら西洋医学を教え、日本の文化を探索・研究した。 オランダ商館長の江戸参府の際には随行し、道中を利用して日本の自然を研究、 地理や植生、気候や天文などを調査した。 江戸では学者らと交友し、高橋景保に最新の世界地図を与え、 交換に最新の日本地図を手に入れる。 これが伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の縮図。 禁輸品であるこの地図を帰国の際持ち出そうとして発覚、国外追放処分となり、 地図を渡した景保は捕らえられ、失意のうちに獄死した。 (シーボルト事件) 帰国後はオランダ政府の後援で日本研究をまとめ、 集大成として全7巻の「日本」を刊行、日本学の一人者となり、 欧州に日本ブームを巻き起こした。 30年後追放が解除となり長男と共に再来日、幕府の外交顧問となった。 日本勤務時代に楠本滝との間に娘・楠本イネをもうけ、 帰国後貴族出身の女と結婚。3男2女をもうけた。 1866年ミュンヘンで死去、70歳だった。

2月18日 冥王星の日
1930年のこの日、アメリカ・ローウェル天文台のクライド・トンボーが、 太陽系第9惑星・冥王星を発見した。 天王星の運行の乱れからもう1つの惑星の存在は予言されていたが、 予想を遥かに下回る15等星という暗さのため、発見が遅くなった。 名前は公募された中から、11歳の少女が命名、 この星の存在を予言したパーシヴァル・ローウェルの頭文字PLを含み その暗さから、ギリシア神話の冥府の神にも因むplutoなった。 日本語名の「冥王星」は、発見後すぐに日本人の野尻抱影が提案。 野尻は英文学、天文民俗学者で、星の和名を研究、 科学館やプラネタリウムでは星座や伝説の解説に、著作が多く引用されている。 ところで、水金地火木土天海冥と昔習った太陽系の9つの惑星、 一時冥王星は海王星よりもほんとは近くて、冥海であるという話がありました。 これは冥王星の軌道が楕円で、一時期海王星より近くなるせいですが、 いまでは冥王星は惑星という基準をみたさない、準惑星となりました。 ということで、太陽系の惑星は海王星までの8つだそうです。 う〜〜ん、そうだったのか。

2月20日 歌舞伎の日
1607(慶長12)年のこの日、出雲の阿国が江戸城で 将軍徳川家康や諸大名の前で初めて歌舞伎踊りを披露した。 阿国とは、出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘で、 出雲大社の巫女となり、勧進のため踊りで諸国を巡回、 京都の北野天満宮で舞台をかけて興行を行った時は男装して、 茶屋遊びに通う伊達男(かぶき者)を演じ大変な人気となった。 するとこれを真似た芝居が遊女によって盛んに演じられるようになり、 風紀が乱れるということで女性による歌舞伎は禁止、 その後少年による歌舞伎が行われるようになるが、男色も盛んな時代、 少年である役者に手を出すものも後を絶たず、 今のような野郎歌舞伎(役者が全員成年男子)にかわった。 江戸時代に歌舞伎は大いに発展、 明治になり西洋の演劇が入ってきてさまざまな改革がなされた。 1960年代には明治以降軽視されていた本来の様式の重要性が再認識され、 1965年には芸能としての歌舞伎が重要無形文化財に指定 (保持者として伝統歌舞伎保存会の構成員を総合認定)、 2009年ユネスコの世界無形遺産に登録された。 さて、落語と歌舞伎は切っても切れません。 落語の中で芝居見物と言えば歌舞伎のこと。 典型的な七段目、四段目を始め、 もろに歌舞伎の世界を描いた中村仲蔵、 歌舞伎の話を落語に移した髪結新三、明烏、 反対に落語が歌舞伎になった芝浜、文七元結、牡丹燈籠、らくだなど いろいろ知れば楽しみも広がっていきますね。

2月21日 国際母語デー
国連教育科学文化機関(ユネスコ)が制定した国際デーの一つ。 言語と文化の多様性、多言語の使用を認め、 それぞれの母国語の尊重を推進することを目的とする。 1952年のこの日、当時パキスタンの一部だったバングラデシュで、 ベンガル語の公用語化を求めるデモ隊に警官隊が発砲し4人が死亡、 独立運動の中の重要な事件の一つとして「言語殉教者の日」としたことに因む。 さて日本ではいかがなものでしょうか。 小学校から英語教育という流れになってきておりますが、 メールやネットの発達で本を読まない人が増え、 肝心の母国語が心もとないのでは? また、英語がしゃべれても中身がない人も多いとか。 考え方や自立の基本は母国語から、 まずはきちんとした日本語教育が大切ではないでしょうか。 みなさん、落語を聞いて母国語と母国の文化を大切にしましょう。 スタジオフォーでは毎月2〜3回落語会を開催していますよ。 (落語が「ちゃんとした日本語」なのか、というツッコミはごもっとも。 単なるこじつけの宣伝でした。ゴメンナサイ。)

2月22日 猫の日

ペットフード工業会が主催した「猫の日制定委員会」が 1987(昭和62)年に制定。 全国の愛猫家からの公募でこの日に決まったが、 その理由は「ニャン(2)ニャン(2)ニャン(2)」の語呂合せ。 ならば犬の日は、ワンワンワン、ということで 1月11日かと思いきや、11月1日。 なぜ1月でなく11月なのかはナゾです。

2月23日 風呂敷の日
京都ふろしき会が制定。 「つ(2)つ(2)み(3)」(包み)の語呂合せ。 最近は何でも包める万能エコバックとして 再注目されるようになってきていますが、歴史は古く、 「包みもの」としての一枚布は奈良時代から存在するそうです。 「風呂敷」という名になったのは江戸時代。 それまでまで日本の風呂は蒸し風呂が基本で、 床に敷きスチームを防いでいた布を、 湯道具包みとして使用するようになった所から。 また、長屋の人々は風呂敷を布団の下に敷いて寝ていた。 真夜中に大火災になった時は四隅を結んで担いで逃げるそうで、 布団は長屋住人の一番の家財道具だったそうです。 近代になっても検察官や弁護士は風呂敷愛用者が多い。 雑多な荷物をまとめられ、沢山の資料を提出した後は手ぶらになるので 現在も検察官の9割が風呂敷愛好者だとか。 京都の風呂敷メーカー「宮井」のサイトに、 いろんな包み方や風呂敷の豆知識が掲載されています。 エコでオシャレで伝統ある風呂敷、1枚いかがでしょうか。

2月24日  大衆作家で直木賞に名を残す直木三十五が亡くなった日
毎年話題になる芥川賞と直木賞、 前者は芥川龍之介だけど、直木さんってだれ?と思って調べてみました。 1891年(明治24年)2月12日、大阪生まれ。 早稲田大学英語科へ進学したが、月謝未納で中退。 しかし大学へは登校し続けて、卒業記念写真の撮影にも参加している。 1920年(大正9年)、いくつかの雑誌の編集担当を経て マキノ・プロダクションのマキノ省三家に居候、マキノに取り入って出資させ、 映画製作にのめりこむもののことごとく失敗、 映画など子供の遊び、と言い捨てて映画界から撤退した。 同年、マキノ邸が映画編集中に失火し全焼すると、 火事場見舞いに訪れ、反対にマキノから小遣いを貰ったうえ、 何と周囲には「マキノはこれで潰れる」と喧伝。 マキノプロからのスタア大量脱退の一因となった。 1929年(昭和4年)「由比根元大殺記」で大衆作家として認められ 「黄門廻国記」は後の水戸黄門の原作にもなった。 代表作は、幕末の薩摩藩を舞台にした「お由羅騒動」だが、 これは三田村鳶魚が調べて発表したのを元ネタにしたため三田村が怒り、 歴史小説・時代小説家らの無知を批判した。 が、そのため海音寺潮五郎、司馬遼太郎、永井路子など本格的歴史作家が育った。 (いずれも直木賞受賞) なんだかひどい人ですねえ。 居候されていたマキノ省三の息子、雅弘の言によると、 一日中着物をぞろりとひっかけ、マキノに煙草を買って来い等用事を言いつけ、 映画制作では一本の脚本も書けないのに金だけは取るタカリ専門の男、だと。 「直木賞ができたときには何やこれと首をかしげた、 彼の名作らしいものを全く知らなかった私は、現在も続いている直木賞に いったいどんな値打ちがあるのかと首をかしげずにはいられないのである。」 直木三十五関係者、ファンの方にはゴメンナサイ。 一応ウィキペディアに書いてあることをまとめたものなので。 本人はともかく、直木賞受賞者はみなさん素晴らしいのだと思いますよ。 芥川賞、直木賞はどう違うのかなどはまたの機会に。

2月25日 菅原道真が亡くなった日(903年)
平安時代の学者で政治家、時の宇多天皇に重用され右大臣まで出世したが、 次期醍醐天皇の世では左大臣藤原時平の陰謀により大宰府に左遷され、 子供4人も流されて、失意のうちに2年後に病死した。 学者として生前もすごい人だったが、実は死後はもっとすごい。 6年後、政敵の時平が39歳の若さで病死、その後醍醐天皇の皇子が次々病死、 さらに宮中に落雷し多数の要人が死傷、醍醐天皇も3ヶ月後に病死した。 朝廷はこれを道真の祟りと恐れ、罪を許し贈位し子供たちも流罪を解かれた。 また雷が祭られていた北野に天満宮を建立、慰霊につとめた。 以後、大災害が起きるたび道真の祟りとして天神信仰が広まったが、 後に生前優秀な学者だったことから学問の神様として信仰されるようになった。 更科日記の作者菅原孝標女(たかすえのむすめ)は道真の6世孫にあたる。 祟りを為す人が神様として信仰されるというのも不思議な感じですが、 当時の人々は人智を超えたものを感じていたのでしょう。 宮廷落雷事件は江戸時代「菅原伝授手習鑑」として描かれ、 人形浄瑠璃、歌舞伎で大人気となりました。 生まれが6月、左遷された日が1月、命日が2月のそれぞれ25日ということで、 25日は天神様の縁日となっています。 それにしても人は死んだら終わりというわけでは決してないんですね。

2月27日 新撰組の日
1862(文久2)年の今日、新撰組の前身「壬生(みぶ)浪士組」が結成された。 浪士組は将軍・徳川家茂が上洛する際に江戸で広く募集された警備担当者。 200人くらいの浪士たちが集まり、将軍にさきがけ上洛したが、 トップの清河八郎が転向、尊王攘夷決行のため江戸帰還を宣言した。 それに反対、京都残留を主張し脱退したのが剣の使い手近藤勇とその門下生、 そして芹沢鴨を中心とする水戸出身の者、合計13人。 京都守護職の会津藩主松平容保は、彼らを預かり「新撰組」の名を与えた。 当初新撰組局長は芹沢鴨だったが、乱暴狼藉が過ぎて近藤に暗殺された。 (実は尊王攘夷思想だった芹沢の排除が目的という説も。) その後近藤が局長、門下生土方歳三が副長となって、 約4年間、京都で尊皇攘夷派・倒幕派の弾圧を行った。 鬼の副長と恐れられた土方は、隊員に常に規律を遵守させ、 破った者はたとえ幹部でも切腹を命じた。 そのため、新選組隊士の死亡原因第1位は切腹であったそうな。 (内部抗争による反対派の粛清という意味もあったらしい。) 倒幕派を急襲した池田屋騒動などで名を挙げたものの、時代は大政奉還へ。 鳥羽伏見の戦いに参加して破れ、近藤勇は捕らえられ板橋にて処刑。 土方歳三は生き残りを率いて、戊辰戦争を戦い、 明治新政府軍に対抗する榎本武揚の艦隊に合流した。 榎本は函館新政府を作り、アジア史上初の共和国として独立宣言したが、 追討指令により総攻撃を受けた。 1869(明治2)年4月、土方歳三は一人敵地に飛び込んで戦死。 近藤の死から約一年後、同じく享年35歳であった。 土方は死期を悟った時、ふるさと多摩の日野に遺品と辞世の歌を託した。 「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも 魂は東の君やまもらん 」 明治政府が新選組と敵対していたこともあり、史学的に研究されることなく、 昭和初期まで「幕府の飼い犬となったコロシの集団」という認識で、 関係者や家族などは、その事を隠していたそうです。 現在における人気は明治時代からの講談や、 数々の小説・映画・ドラマなどフィクション作品の影響でしょう。 「滅び行く幕府に忠誠を貫いた誠のヒーロー」として、 判官びいきの日本人のハートをガッチリと掴んだようで、 隊士の墓参りするファンも多いとか。 スタジオから徒歩15分くらい、板橋駅前に近藤勇の墓がありますよ。

2月28日 ビスケットの日
全国ビスケット協会が1980(昭和55)年に制定し、翌年から実施。 1855(安政2)年のこの日、パンの製法を学ぶ為に長崎に留学していた水戸藩の柴田方庵が、 同藩の萩信之助に、パン・ビスケットの製法を書いた「パン・ビスコイト製法書」を送った。 これが、ビスケットの製法を記した日本初の文書とされている。 ビスケットの原型は一度焼いて作ったパンを再度焼いて作った堅パンで、 本来は軍隊用・航海用の保存食だった。 語原はラテン語の「二度焼かれた物(ビス・コクトゥス)」という意味で、 28日には「に(2)どや(8)く」の語呂合せもある。 さてビスケットとクッキーはどう違うのでしょうか。 日本ではクッキーの方が高級品という扱いで、 「手作り風の外観を有し、糖分、脂肪分の合計が重量百分比で40%以上のもの」 などという規定がありますが、実は英語としては区別はなく、 英国では両者をビスケットと呼び、米国では両者をクッキーと呼ぶそうです。 米国のビスケットは英国のスコーンに近いもので、ケンタッキーで売っているものがそれ。 全国ビスケット協会ではクイズにこたえるとフランス旅行が当たるキャンペーン中です。 ひとつご応募いかがでしょうか。


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