今日は何の日 1月

●メルマガのオマケでその日の記念日記事を書いているのですが、その部分だけをまとめてみました。
気楽な読み物として楽しんでいただければ幸いです。


1月2日 初夢
元旦から2日にかけて見る夢で、1年の吉凶を占う風習がある。 江戸時代には大晦日〜元日、元日〜2日、2日〜3日の3説が現れた。 元日〜2日が定着したのは、大晦日の夜は眠らない風習ができたこと、 書初めや初商いなど多くの新年の行事が2日に行われることなどから。 初夢に見ると縁起が良いものを表す「一富士二鷹三茄子」とは いずれも駿河の名物で、家康公の立身出世にあやかろうという説、 富士信仰から、駒込富士神社そばに鷹匠屋敷があり茄子が名産物だった説など。 また良い夢を見るには、七福神の乗った宝船の絵に 「永き世の遠[とお]の眠[ねぶ]りの皆目覚め波乗り船の音の良きかな」という 回文の歌を書いたもの枕の下に入れて眠る、 それでも悪い夢を見た時は、翌朝宝船の絵を川に流して縁起直しをする、 という風習が江戸時代はやって、暮れに宝船の絵を売り歩く商人もいました。 落語にも、羽団扇、七福神(かつぎや)、宝船などという噺が残っています。 みなさま、よい夢を見られたでしょうか。

1月3日 元始祭
天孫降臨を祝って天皇みずから主宰する、かつての祭日。 昭和23年制定の「国民の祝日に関する法律」により祝日からは外されたが、 宮中では現在でも従来通りの元始祭が行われている。 さて、祝日、祭日など言いますが、どれが正しいのでしょうか。 現在は法律で制定された特定の日が祝日とされ、 規定の振替日が休日とされる以外に「祭日」というものは存在していません。 祝祭日は皇室行事から来たものなので、戦後すべて廃止されましたが、 本来その名の通り、祝日はお祝いの日、祭日はお祭りの日だったのです。 現在残っているのは、祝日では建国記念日(紀元節)、天皇誕生日(天長節) 祭日では勤労感謝の日(新嘗祭)だけになりましたが、 皇室行事としてはそれぞれ7祝日、10祭日が現在も行われています。 そのほか皇室関係の慶弔行事、外交などの対外的なお仕事もあり、 天皇陛下という職業は、なかなか大変でお忙しいようです。

1月4日 巣鴨の初地蔵

スタジオフォーのすぐ近くの高岩時はとげぬき地蔵として有名で、 毎月4、14、24の「四の日」には縁日が催され、 多くの参拝者で賑わいます。 特に1月4日は「初地蔵」ということで、 初詣の人や買い物客も多く訪れます。 お地蔵様というのは地蔵菩薩のこと。 サンスクリット語のクシティ・ガルバと言い、 それぞれ大地、胎内という意味なのですが、 それを意訳したものが「地蔵」なんだそうです。 大地が全ての命を育む力を蔵するように、 苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包みこみ、 救う所から名付けられたらしい。 巣鴨は、今では高岩寺のとげぬき地蔵の方が有名ですが、 実は江戸六地蔵と呼ばれ大いに信仰を集めたお地蔵様が 地蔵通り入り口のすぐ左手、眞性寺にあります。 像の高さは2.68メートル。 江戸六地蔵の第4番として、1700年頃建立されました。 街道出入り口六ヶ所にお地蔵様を建立し、 江戸の町の安寧を願ったそうです。 まさに地蔵の街、巣鴨。 縁日は4の日にやっていますのでぜひ散歩がてら遊びにおいでください。 ただし、どの店も閉店時間は早いです。

1月5日 囲碁の日
日本棋院が提唱。ご想像のとおり、「い(1)ご(5)」から。新年早々、語呂合わせでスミマセン。囲碁は2人で、白と黒の石を持ち、交代で打って盤の陣取りをするゲーム。強い方が白い石を持ち、弱い方が黒い石を持ちますが、もともと6世紀頃、中国から伝えられた当時は逆だったとか。古代中国では、黒は高貴な色で、上に立つ者は「黒」、日本でも最初の頃はそのルールを真似していたが鎌倉時代になると突然逆になってしまう。源氏の武士たちのシンボルカラーが「白」だったので、「上に立つ者は白であるべきだ」と言うことで、強い方が白い石を持つようになった。この「源氏が白」と言うのは別の所にも残っていて運動会などの紅組、白組も、源氏が白で、平家(のシンボルカラー)が「赤」だから。年末恒例の紅白歌合戦、実は源平合戦だとすると、2008年は源氏の勝ちでしたね。

1月6日 色の日
「い(1)ろ(6)」の語呂合せ。 光が物の表面に当たると、周波数によって吸収や反射がなされるが、 その反射された波長を視覚がとらえて色として認識するものである。 たとえば赤だけを吸収する物体は、その補色(反対色)である緑を反射するため、 人間の目には緑の物体であると認識される。 これは人間の視覚の感じ方なので、動物や昆虫はまた違った見え方をする。 光が色の集合体であるという一番わかりやすい例は虹。 太陽光が空気中の水滴によって屈折、反射される時分解されて、 複数色の帯に見える現象で、これは屈折率の違いによるもの。 (一番屈折しにくい赤が外側で、だんだん屈折しやすい色に変わっていく) なお、虹が7色というのはニュートンの研究に由来する学校教育によるもので 2色、5色、6色などととらえる国や民族もある。 古代日本は光の明暗濃淡を表すだけで、色を表す固有の言葉はなかったそうです。 赤はくっきり明るい状態から、明らかな嘘→真っ赤な嘘、全くの他人→赤の他人、 青は漠然としてはっきりせず不十分な様子を表すことから、青二才、青くさい、 緑は新芽のように若やいだ状態で、緑児(みどりご)、緑の黒髪、 などの表現が生まれました。 面白いですね。

1月7日 人日(じんじつ)
七種粥 人日とは中国の五節句のひとつ。 正月の1日〜7日までそれぞれを動物の日とし(鶏、狗、猪、羊、牛、馬、人) その日にはその動物を殺さないようにした。 7日の人日は犯罪者への刑罰は行わない。(殺人をしない日ではない) また7種類の野菜を入れた汁物を食べる習慣が日本に伝わり、 七草粥として平安時代から始められ、江戸時代に一般に定着した。 なお、五節句とは季節の変わり目で奇数が重なる日に邪気を払うお祭りで、 江戸幕府の公式行事として取り入れられた。 1月1日は元旦として代わりに7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日で、 それぞれひな祭り、端午の節句、七夕、長陽の節句として今でも定着している。 また、7日は新年になって初めて爪を切る日ともされ、 七草を浸した水に爪をつけて切ると、風邪をひかないと言われている。 一般的には七草粥の日ですね。 正式には七種粥と言い、七種の春野菜を刻んで粥に入れ食べると、 万病を除くというおまじないですが、おせち料理で疲れた胃を休め、 野菜が乏しい冬場に不足しがちな栄養素を補うという効能があります。 せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろの七種で、 今はスーパーでパックに入って売っているのでぜひ食べてみましょう。 フリーズドライもあるそうです。

1月9日 風邪の日
1795(寛政7)年のこの日、横綱谷風がインフルエンザで35連勝のまま死去、44歳。 このためインフルエンザのことをタニカゼと言っていたが、 実際は亡くなる10年前、「わしが倒れるのは風邪にかかった時くらい」 と語ったことからその頃流行した流感がタニカゼと呼ばれ、混同された。 谷風梶之助は江戸時代の大横綱で仙台藩生まれ、本名金子与四郎。 体格は、全盛時代で身長189cm、体重169kgのアンコ型巨人で、 足袋の中に白米が一升五合入ったと伝わる。 谷風の末裔の家に保管されている大腿骨からも巨体が推察できるそう。 (大腿骨が残っているというのもスゴイ) 将軍徳川家斉観戦の上覧相撲の時、将軍家より弓を賜り、 これを手に土俵上で舞ってみせたのが現在の弓取式の始まり。 本場所を通じて80連勝以上2回、優勝20回以上、50連勝以上、通算勝率9割以上、 また雷電爲右エ門を弟子とし、鍛え上げるなど相撲黄金時代を築いた。 強いだけじゃない、人格の面でも後の横綱の模範とされました。 落語ファンならおなじみ「佐野山」というお話でもうかがい知れます。 病気の母親を助けるため命がけで相撲を取る佐野山に、 情けをかけてわざと負けてやるお話、これって八百長じゃん? でも親孝行ならともかく今はお金のやり取り、それはよくないですね。 仙台には谷風像や、谷風通りがあるそうです。 あの無敵の大横綱、谷風をも死に至らしめたインフルエンザ、 これからが流行のピークです。 栄養、睡眠をよくとって、うがい、手洗いで乗り切りましょう。

1月10日 明太子の日
昭和24年(1949)に初めて明太子を発売したのを記念して博多中州の「ふくや」が制定。 朝鮮半島では古くから、スケトウダラの卵を唐辛子とともに塩漬けにして食していた。戦前、これが下関を中心に輸入され、またこの地には北海道産のタラコも集まったため、 トウガラシや酒粕をまぶした、「まぶし型辛子明太子」が多く製造される。 これは味付けというより、運送などによる品質劣化を防ぐためのもの。 戦後になり、ふくや創業者川原俊夫は戦時中に住んでいた韓国の明太子の味が忘れられず、 日本人の口に合うよう様々に試行錯誤した結果、調味液に漬け込み熟成させるという 独特の「漬け込み型」を開発、辛子明太子として完成させた。 その味が評判になると製法の教えを請う同業者に惜しげもなく開示、 おかげで明太子を作る店が多数でき、あっという間に博多の代表的な食物となった。 博多が下関を席巻してしまったわけですね。 さて、タラコとメンタイコは何が違うのでしょうか。 中国語でスケトウダラを「明太」(ミンタイ)と呼ぶため、その子(卵)をメンタイコ、 日本語ではタラの子なのでタラコ、というわけで実は原料は同じもの。 ちなみに本家、朝鮮半島の「辛子明太」は、実は唐辛子で味付けした「タラ」(子じゃなくて親) いわゆる「明太子」は強烈にニンニクが利いていて、似て非なるものだそうです。

1月11日 鏡開き
正月に年神様に供えた鏡餅を雑煮や汁粉にして食べ、一家の円満を願う行事。 武家社会の風習だったものが一般化した。 刃物で切るのは切腹を連想させるため、 手や木鎚で割ったり、砕いたりする。また、「切る」という言葉をさけて、 「開く」という縁起の良い言葉を使っている。 今はほとんど、二段の丸もちをかたどった、 おそなえパックになっているんじゃないでしょうか。 かびも生えず、衛生的ではあります。 そして中のおもちを食べるときは、 文字通り、パックを「開く」わけですね。

1月13日 ピースの日
昭和21(1946)年高級たばこ「ピース」が発売された。 ピースは自由販売たばこの第1号で、この日はタバコの日ともいわれる。 最高級バージニア葉を使っていて、香り高いというのが売りで、 それまでのたばこが10本入りで20〜60銭に対して7円、10倍から30倍以上もしたが 人気は大変高く、1人あたりの販売数が制限されたこともあった。 昭和27(1952)年4月、紺地に金色の鳩とオリーブの葉の新しいデザインが発売、 斬新さが大評判となり、売り上げは前年同月の3倍にもなった。 デザインはラッキーストライクも手掛けたアメリカの商業デザイナー、 レイモンド・ローウィによるもので、デザイン料は何と150万円、 (当時の総理大臣の月給は11万円) これでもローウィ事務所側としては格安の受注であったという。 その濃紺地は「ピース紺」という新しい色調を生むなど、産業界はもとより、 一般の人々の間にもデザインに対する関心を深めるきっかけとなった。 近年は健康のためにたばこは敵視されていますが、 デザインなどの文化的な側面もあったんですね。 ちなみにハイライトのデザインは和田誠が手がけました。

1月16日 禁酒の日
1920(大正9)年のこの日、アメリカで禁酒法が実施された。 (禁酒をしましょうという日ではありません!) もともとアメリカでは宗教上(ピューリタン)アルコールに強い批判があり、 20世紀初頭までに18の州で禁酒法が実施されていたが、これが全国に及んだ。 違反者は初犯でも罰金1000ドル、禁固6カ月という大罪。 しかし庶民の酒に対する欲求は止みがたく、密造酒と密輸酒があふれる事態に。 施行前、ニューヨークにあったバーは1万5000だったが、 禁酒時代には3万2000もの闇バーがあったとか。 仕切ってたのはアル・カポネをはじめとするギャング連中で、 これによりアメリカのアングラ社会が確立し、 ギャングは儲けた金で警察や裁判官を買収、摘発されても堂々保釈され、 それを庶民が喝采するというとんでもない事態に。 結局、密造酒による健康問題や、密売にかかわるギャングの出現、 税収の落ち込みなどにより14年後に廃止された。 撤廃までに売られた酒は推定53億リットル、 儲けたのはカナダの酒造メーカーとギャングだけ、 そして悪酒で2000人近い死者や失明者が出たそうな。 またこの時、カナダからマフィアを通じて酒を密輸入し、 大きな財を築いたのがジョン・F・ケネディの父ジョセフ・P・ケネディ、 というのは有名な話だそうです。 まったく庶民の楽しみを奪うような法律はとんでもないですよね。 と、私は最近ハマっている七輪で熱燗ちびちび飲みながら思います。 ちなみに今日は囲炉裏の日(いい炉の語呂合わせ)でもあります。

1月17日 阪神・淡路大震災記念日、防災とボランティアの日、おむすびの日
1995(平成7)年1月17日午前5時46分、淡路島北端を震源とする大地震が発生。 マグニチュードは7.3、震源の深さ約14キロ、各地で震度7の激震を記録した。 地震は人口密集地を直撃し、ライフラインが壊滅、自宅を失なった人23万人、 死者6千人以上、負傷者約4万2千人、倒壊家屋約40万棟、被害総額10兆円に登る。 こういう数字をあらためて見ると、いかに甚大な被害だったかよくわかります。 この時、政府や行政の対応の遅れが批判された一方、 学生を中心としたボランティア活動が活発化、 「日本のボランティア元年」と言われ、 同年末「防災とボランティアの日」の制定が閣議決定されました。 また、ボランティアの炊き出しで被災者が励まされたことから、 「おむすびの日」ということにもなりました。 確かにボランティア意識の高まりは震災のおかげとも言えますが、 ああいう悲惨な災害は、できれば遭いたくないものです。 未だに震災から復興できないハイチのニュースなどを見ますと 日本は平和で国力もあって良かったなあとつくづく思ったりします。 何事もなく日々穏やかに暮らせることが一番ありがたいですね。

1月18日 振袖火事の日
明暦3年(1657年)の大火で、江戸の町の大半を焼失し10万人以上が死亡した。 (当時の人口は30万人くらい) 美しい寺小姓に一目ぼれした娘が、 小姓が来ていた着物と同じ柄の振袖を作ってもらい、 想い続けたが、恋煩いで死んでしまう。 本郷の本妙寺で葬儀が営まれ、振袖も奉納されるが、 寺は慣例通り、古着屋に売り払った。 ところがその振袖を着た娘が次々に亡くなってしまう。 さすがの寺も因縁を感じ、焼いて供養したところ、 燃えた振袖が突風で舞い上がり、寺に火が付き、 それが広がって江戸中を焼きつくす大火となった。 これが「振袖火事」と呼ばれる所以ですが、 本当の火元は、老中・阿部忠秋宅で、 バレると幕府の権威失墜につながることから 阿部家に隣接した本妙寺が、承知で汚名をかぶったらしい。 その証拠に、火元の本妙寺には何のお咎めがなかったどころか、 幕府の援助を得てその後異例の昇格し、 阿部家からも毎年多くの寄進を受けています。 この大火後江戸の町は計画的に整備され、大きく発展したので、 江戸の都市計画のために、知恵伊豆と呼ばれた松平伊豆守信綱が 放火させたという説もあります。 さて、真相はいかがなものでしょうか。 実はこの本妙寺は明治になって、巣鴨5丁目に移転しました。 スタジオのすぐ近くです。 散歩がてら、供養しにいらっしゃいませんか? 他にも近くに四谷怪談のお岩さんや、近藤勇の墓もあります。 (巣鴨には寺と墓しかないのかって? いや、お地蔵様もありますよ。)

1月19日 家庭消火器点検の日
>全国消防機器販売業協会が1991(平成3)年に制定。1と19で「119」となることから。11月9日が消防庁が定めた「119の日」であるため、1月19日を記念日とした。ここで疑問。110番の日は1月10日なのに、なぜ119番の日が1月19日にならなかったのか。しかも調べてみると110番の日の方が制定が早い。こちらは11月にすると0日になっちゃうので1月にせざるを得なかっただろうが、119はどちらでもよかったはず。先に決まっていた1月10日の110番の日に近いほうが相乗効果で盛り上がるだろうに。それとも日にちが近いとアピール度が低くなるのか、冬場(火事のシーズン)に入る前に、
防火意識を喚起させる意図なのか。119番の日を11月9日にすべきか1月19日にすべきか、偉い人たちがマジメに議論していたかと思うと結構楽しい。

1月20日 玉の輿の日
明治38年(1905)のこの日、アメリカの財閥モルガン一族のジョージが、 祇園の芸妓・加藤ゆきを見初めて結婚したことから。 ゆきは寺町六角の刀剣商の四女だったが、家が傾き父も亡くなったので、 姉の営む祇園の置屋で14歳から芸妓として働き始めた。 ジョージは大富豪で美男だったが結婚に失敗し、傷心を抱えて日本へ旅行、 座敷に上がった、当時20歳のゆきに一目ぼれ、プロポーズをする。 ゆきには将来を約束した川上という恋人がいたので断り続けたが、 ジョージはあきらめず、3年にもわたって求婚し続け、 これが人々の噂になり、さらに新聞ネタにもなったことから、 川上の家族からも結婚を反対され、ついに川上は別な女性と結婚、 とうとうゆきも根負けして、23歳の時、ジョージと結婚した。 この時の身請けのお金は何と4万円(今なら2億円くらい)。 これも大きな話題になり、また芸妓であったため 「外国人に身を売った」など当時、相当の陰口を叩かれた。 さて玉の輿のその後です。 結婚後アメリカに渡ったが、当然モルガン一族からは白い目で見られ、 居心地の悪さから半年後、パリで暮らすようになりました。 夫婦仲は良く、もちろんお金もたっぷりあったでしょうが、 異国の地で心細い生活だったと思います。 しかも結婚10年たって夫ジョージは旅の途中で病死、 遺産相続をめぐって一族から訴訟を起こされるなど苦難の連続でした。 1938年、24年ぶりに帰国、クリスチャンとなって81歳で亡くなるまで 地味で信仰に生きた晩年でした。 若い女性は玉の輿狙いなど軽々口にしますが、中々大変のようですよ。

1月21日 料理番組の日
1937年イギリスのBBCテレビで、世界初の料理番組『夕べの料理』が放送開始。 この日の担当マルセル・ブールスタンは「オムレツの作り方」を紹介、 世界で初めてテレビに出演した料理人となった。 家にいながらプロの料理を学べるという画期的な番組は テレビならではの利点を生かしたもので、大評判となった。 日本では1952年NHKの家庭番組「ホームライブラリー」での料理方法紹介が初。 番組としては1953年日本テレビ「味覚のしおり」、 第一回は黒田初子のチキンサラダだった。 なお1963年本日、日本テレビ「3分クッキング」スタート、 今年はちょうど50周年にあたる。 ブールスタンという人は当時のフランス料理界の、言わば鉄人。 料理本などで英語圏にフランス料理を定着させ、 ロンドンにレストランを開いて大成功し、雑誌や新聞にも記事を書いたそう。 「料理は化学ではなく芸術。計量することではなく、本能と趣味が必要」 ということばを残しているそうです。 また黒田初子さんは実は女性登山家の草分けで、 北アルプスの小槍、剣岳など数多くの山々を女性として初登攀しました。 料理研究家としても活躍、生涯現役をモットーに晩年まで料理教室を主宰、 「いきいき九十歳の生活術」を出版し、2002年に99歳の天寿を全うしました。 かくありたいものですね。

1月23日 八甲田山の日
1902(明治35)年、八甲田山への雪中行軍で兵士210名が遭難し199名が死亡、 助かった者も凍傷による四肢の切断など、大惨事となった。 新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」で有名。(映画化もされた) 当時陸軍は迫りくる日露開戦を前に、シベリアを想定した寒地作戦の訓練として 青森と弘前の歩兵にそれぞれ任務を与え、八甲田山の雪中行軍を実施した。 (青森隊は雪山での運搬、軍隊移動、弘前隊は服装、行軍方法等の研究) ところがこの時期に空前の寒波となり、青森隊210名は道を失って遭難、 捜索も困難を極め、遺体の最後の一人が発見されたのは4ヶ月も後だった。 一方の弘前隊は38名、事前に雪山での訓練、夏の八甲田登山など準備を重ね、 全員無事に帰還した。 惨事の一番の原因は気象条件だが、兵卒や運搬物資の規模の大きさ、 指揮系統の乱れ、訓練不足、稚拙な装備等の認識の甘さによる所が大きい。 生き残ったものの、手や足を切断された下士官・兵は、除隊し帰郷、 地元では八甲田の生き残りとして英雄扱いされ、嫁の希望者が殺到した。 上級士官は防寒装備のおかげで切断を免れたが、2年後日露戦争で戦死した。 さてこの遭難事件から暫く経った頃、青森の駐屯地に 「中隊規模の一群が八甲田方面からやって来る」という噂が。 夜明け間近、行軍の足音とともにラッパの音、軍靴が聞こえて来たので、 連隊長が意を決して、「お前達は勇戦奮闘して見事な最期を遂げた! 軍装及び厳寒期の戦術に一大改革が施された功績は大きい! 迷わず心安く眠れ!青森五連隊の雪中行軍隊、回れ右!前へ進め! 」 と号令をかけると足音はピタリと止まり、 八甲田山に向って静かに遠ざかって行ったそうな。 なお、八甲田山という名の山は実際はない、というのはご存じでしたか? 大岳、前岳、田茂萢岳、赤倉岳、井戸岳、硫黄岳、石倉岳、高田大岳の 八つの1500m級の山々の総称で、これらが八つの甲(たて)に見える事から 通常八甲田と呼ばれていて、正式には「北八甲田連峰」と言います。 豪雪地帯として有名で、今でも陸上自衛隊は毎年厳冬期に 八甲田山系での冬季雪中戦技演習を行なっているそうです。 北大路欣也のセリフ「天は我々を見放した」が当時の流行語にもなった、 映画「八甲田山」は、実際に真冬の八甲田山でロケを敢行、 高倉健はこの撮影で足が軽度の凍傷になってしまったとか 俳優が数名、その過酷さに耐えられず脱走したなど 日本映画史上類を見ない過酷なロケとして有名になり そのおかげか、日本映画として当時配給収入の最高新記録となりました。 悲惨なイメージが強い八甲田山ですが、良質な雪でのスキー、 紅葉や高山植物を見ながらのハイキング、多様な泉質の温泉など、 自然を楽しめる日本有数のスポットです。 一度おでかけになってはいかがでしょうか。



1月24日 初地蔵

24日はお地蔵様の縁日で、それにちなみ地蔵通りでは 4のつく日に縁日を開催している関係上、1月4日が初地蔵ですが、 本来は1月24日です。 地蔵とはサンスクリット語でクシティガルバの意訳、 直訳すると大地の母胎という意味。 地蔵十王経によれば閻魔大王の化身ともされているが、 お釈迦様が亡くなってから五十六億七千万年後に 救済者(弥勒菩薩)が登場するまでの間、人々を救うのが主な役目です。 また地蔵菩薩は、親より先に亡くなった子供が 賽の河原で苦しんでいるのを救うという言い伝えから、 子供の守り神とも言われ、子供のお祭りとして地蔵盆が行われています。 (おもに関西地方) これは8月24日に地域の子供がそこに祭られているお地蔵様にお参りし、 お菓子を食べたり遊んだりする、地域のコミュニティー行事です。 お地蔵様は、供養し礼拝したら28の功徳があると言われています。 衣食が豊かになる、善果が増す、病気にかからない、水の難、火の難に遭わない など、いいことずくめではありますが、その中にひとつ、 女が男性に転ずる、というのもあります。 男になるのがそんなにいいことなのか理解できませんが、 経典が生まれた時代にはきっとそうだったんでしょうね。 巣鴨、とげぬき地蔵の縁日は屋台も一杯出て大賑わいです。 ぜひお参りに来て、28の功徳をいただいてください。 でも男性になりたくない女性の方は、そこは外してお願いしてくださいね。

1月25日 初天神
毎月25日は天神様(天満宮)の縁日ですが、 1月は年の最初ということで大いに賑わいます。 落語「初天神」は今日のことです。 今日は寄席では初天神を演る人が多いのでは? 天神様とは平安時代の学者であり政治家でもあった菅原道真のこと。 幼いころより学問に秀で、時の天皇に重用されますが、 権力者・藤原時平に妬まれ、讒言されて九州の太宰府へ流罪になります。 2年後無念の思いで世を去りますが、 その直後から京の都では次々と異変が起きる。 道真の祟りと怖れた朝廷は子孫を許し官位を復活させ、 北野天満宮を建立して道真の霊を鎮めようとしました。 その後、天変地異が起きるたびに道真の祟りとされ、 各地に天満宮が建てられ、天神信仰が広まって行ったのです。 道真が学問に秀でていた所から、学問の神様ということにもなりました。 そろそろ受験シーズン、お参りに行かなければいけませんね。 道真は誕生日が6月25日、命日が2月25日、流罪になった日が1月25日、 というわけで、25日が天神さんの日というわけ。 また道真の左遷にちなんで、「左遷の日」でもあります。 こちらはあんまりありがたくない記念日ですね。

1月27日 国旗制定記念日
1870(明治3)年のこの日、日本の国旗のデザインや規格が 定められたことを記念して国旗協会が制定。 国旗の歴史的起源は、戦場での所属を表すための軍旗に由来する。 17世紀初期、船舶の所属を示すため商船旗として使われ始め、 その後ナショナリズムの高まりで、一般国民も国旗を掲揚するようになった。 国旗には、市民旗、政府旗、軍用旗の3つがあり、 アメリカ、イギリスなどは3つとも同じ意匠だが、 ラテンアメリカ諸国などは、市民旗と政府旗が厳密に分けられている。 日本は軍用旗だけ別で、日の丸に16本の光を表した十六条旭日旗である。 国旗掲揚時は自国、他国に関わらず、起立、脱帽し、 直立不動で国旗に注目し敬意を表明することが基本。 掲揚は日の出から日没まで、または一日の節目に掲揚・収納する。 他に雨天の場合は屋外に掲揚してはならない、地面に触れさせてはならない、 自国の国旗を掲げる事なく外国旗だけを掲げない、 破れたり、汚れた国旗は使用してはならない、など細かい決まりがあるが、 国旗はその国そのものを表しているというのが国際的な考え方なので、 国同士のトラブル時にも象徴的に使われたりもする。 さて、この記念日を制定した国旗協会とは何でしょう。 内閣府所管の社団法人で、国を象徴する国旗の正しい理解と普及が目的だそう。 毎年1月2日、皇居での新年の一般参賀の時ほとんどの人が日の丸の小旗を 一生懸命振っているが、これはこの協会が作って配っているのだそうだ。 使用済みの小旗は持ち帰ってもよく、回収された旗も使い回しにはしないそうです。 昔は旗日という名の通り、祝祭日にはどの家にも日の丸が掲げてありましたが、 今はほとんど見かけませんね。 そもそも家に国旗がないですもんね。
1月28日 コピーライターの日
1956(昭和31)年のこの日、「万国著作権条約」が公布された。 この条約で、著作物にCopyright(著作権)の頭文字Cを丸で囲んだ記号を 附記することが定められたことから、 「コピーライト」を「コピーライター」にひっかけて制定された。 実は「コピーライターの日」と言うのはもう一つあって、 (株)宣伝会議が、50周年を記念して2007年に制定した11月11日 。 その理由は1が4つ並んでいることから “ひとびとにヒットする一行” と言うキャッチフレーズにかけたもの。 いかにもコピーライターともいえるが1月28日に対する著作権は大丈夫なのか? しかしそもそも著作権についての記念日を コピーライターの日にしてしまうのは無理があるんではないか、 などなど考えてしまいます。

1月30日 3分間電話の日
1970(昭和45)年のこの日、公衆電話からの市内通話の料金が3分で10円になった。 それまでは1通話10円、時間は無制限だったため、長電話が続出、 電話待ちが問題となり、その対策として。 しかし3分ごとに10円入れなければならず、硬貨不足で切れてしまう事態が頻発、 100円玉が使える機種が登場した。 が、これは100円未満でもおつりが出ず不評、 その後テレホンカードが登場して飛躍的に利便性が良くなった。 1985年には全国の公衆電話は90万台を突破、 ところがこの後、携帯電話の普及により下降線をたどっていく。 電話は世の移り変わりを端的に表しているものの一つと言えるでしょう。 私の子供の頃、電話は近所の大きな店にしかなく、 大事な時だけ使わせてもらったり呼び出してもらっていました。 公衆電話も住宅地にはなく、駅やデパートしかなかったと思います。 腕時計からアンテナ伸ばして通信しているSFマンガを楽しんでいたが、 それが現実になるなんて全く思ってもみなかったです。 (もっとも今でも腕時計電話なんてのはありませんが) 電話は今や一家に一台どころか一人で何台も持つ時代、 公衆電話はついに25万台にまで落ち込みました。 しかし災害時に強かったことが証明され、見直されています。 眠っているテレホンカードも大事に取っておいた方がよさそうです。 ちなみに1993年に公衆電話料金は大幅値上げされ、1分10円となりましたが、 この日付はどこにも載っていませんでした。 どなたかご存じの方教えてください。

1月31日 生命保険の日

保険のトップセールスマンの会、MDRT日本会が制定。 1882(明治15)年のこの日、生命保険の受取人第一号が現れた。 1月20日に心臓病で急死した警部長で、支払われた保険金は1000円、 当人が払った保険料は30円だった。 この金額って、具体的にどうなの? と思って調べてみたら、明治10年の役人の年収リスト発見。 トップが3000円、中堅で1000円ということで、警部長はこのあたりでしょうか。 ということはだいたい年収の3分の1くらい払ったところで、年収分の保険金、 ちょっと少ない気もするけど、まあ妥当な線でしょうか。 ところでMDRT日本会てのは一体何なんでしょう。 最高水準の生命保険プロフェッショナルが会員で、 生命保険業界をリードする団体なんだそうです。 2009年6月現在会員数は3,090名。 入会資格は年収が2000万、売上3300万以上ですって。 まあ私には全く縁のない話です。


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